つらつら日暮らし

龍牙居遁禅師の言葉と懺悔

現在、拙僧が承っている『正法眼蔵』勉強会では「渓声山色」巻を読み終えたのだが、同巻巻末に見られる或る一節について学んでみたい。その前に、曹洞宗の読誦教典として100年以上にわたって用いられている『修証義』の「第二章 懺悔滅罪」の一節を見ていこうと思う。

 其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。
 我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。
    下線は拙僧


特に下線部をご覧頂きたいが、この部分はいわゆる「懺悔文」に当たるけれども、本来の『正法眼蔵』には無い一節であり、恐らくは道元禅師の『出家略作法』や『仏祖正伝菩薩戒作法教授戒文』などから引用されたものと思われる。では、この一節の典拠である『正法眼蔵』では以下のようになる。

 その大旨は、願は、われたとひ過去の悪業おほくかさなりて、障道の因縁ありとも、仏道によりて得道せりし諸仏諸祖、われをあはれみて、業累を解脱せしめ、学道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無尽法界に充満弥綸せざらん、あはれみをわれに分布すべし。仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。仏祖を仰観すれば一仏祖なり、発心を観想するにも一発心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり。
 このゆえに、龍牙のいはく、昔生未了今須了、此生度取累生身。古仏未悟同今者、悟了今人即古人。
 しづかにこの因縁を参究すべし、これ証仏の承当なり。
 かくのごとく懺悔すれば、かならず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露白仏すべし、発露のちから、罪根をして銷殞せしむるなり。
    「渓声山色」巻、下線は拙僧


完全に一致するわけではないが、一応『修証義』本文の「懺悔文」に相当する箇所には、中国曹洞宗の龍牙居遁禅師(洞山良价禅師の法嗣、835~923)の言葉が入っている。訓読すれば、以下の通りである。

昔生に未だ了ぜざれば今須く了ずべし、此の生に累生の身を度取す。
古仏未だ悟らざれば今者に同じ、悟了せば今人即ち古人なり。


出典は『禅門諸祖詩偈頌』(一)であるとされる。この「累生の身を度取す」や、「悟了せば今人即ち古人なり」といった文脈は、「示云、仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡もあり。然ども皆改めて知識に従ひ、教行に依リしかば、皆仏祖と成りしなり」(『正法眼蔵随聞記』巻1)などとあるように、道元禅師は類似した教えを繰り返し示しておられる。そこで、龍牙禅師の語句を用いること自体は違和感が無い。ただ、個人的に学ばねばならないのは、何故、龍牙禅師の語句が「懺悔」に繋がるかである。『修証義』の場合の「懺悔」は、「懺悔文」になっており、理解に困難なところが無い。

ところが、「渓声山色」巻では、「懺悔」する理由は自らの修行を反省した結果、「不信」と「懈怠」から逃れられないと思ったとき、前仏に懺悔し、その結果仏道修行を再開し、得道していくための原動力に値する。つまり、ここで龍牙禅師の偈を用いた理由を、文字から考えれば、従来の人生においては未だ仏道を了じていなかったけれども、今必ずそれを成し遂げるのだという想いを表明するためだといえる。懺悔と同時に、祖師の想いを共有することで、今ここでの修行の完成、得道を祈念するのである。これこそ「証仏の承当」になるものか。

よって、祖師の気高い志に触れ、自らの志気の不足を歎いた結果、ここで初めて懺悔は完成し、その想いを共有された仏祖は必ずその修行者、いや求道者を冥助してくださるのである。だからこそ、「不信」と「懈怠」が起きた時には、身心を奮って、恥じるべき現状を全て、前仏に申し上げるべきなのである。その時、強力な自己反省が起きて、「不信」と「懈怠」の原因となっていた罪根は消え、また修行に進むのである。

「懺悔」と聞くと、どうしても近代以降に改めて日本に布教されたキリスト教の影響もあって、彼らの「原罪」説などを見ながら、我々自身に深い罪があるように思う人も多いかもしれない。ところが、本来曹洞宗に於ける「罪」とは、「神への裏切り」や「規範への反抗」ではなく、「修行の妨げになる諸原因」を意味する。「不信」や「懈怠」とは、既にその「罪」によって生じている因果の「果」である。だから、その発現に気付いた時にこそ、我々は懺悔を必要とする。それは、自らの修行を妨げている原因の排除と、修行の再起動を行うことである。

我々にとり、何よりも問題なのは、自らの修行の完成がなされないことである。世俗的な倫理性や規範に於ける罪の有無よりも、それが圧倒的に優先される。いや、最早次元の違う問題である。次元が違うのだから、僧侶の行動は、世俗的な倫理性や規範性と「捻れの位置」にあるため、世俗性によって規定されない。世俗的に、僧侶の行動が理解できないとき、それはむしろ、僧侶にとっては尋常である。無論、世俗に於ける規範と「対立する」などといっているのではない。お互い関係が無いといっているのである。よって、世俗の規範を意図的に破ることを意味しているのではない。意味していないのではない。関係無いのである。

しかし、それが『修証義』になれば、世俗の規範をも含めた上で、罪の有無を検証し、反省しなくてはならない。本来在家化導の教典として作られたテキストの位置付けからして、それで筋が通る。ただし、『正法眼蔵』とは違う。無論違っていて良い。何故ならば、『修証義』とは、道元禅師の教えや『正法眼蔵』を「要約」したのではなくて、明治期に宗門が教化を進めていくために必要だと思われた概念で、適宜『正法眼蔵』から言葉を引いて新たに「組織化」されたテキストだからである。

そういえば、龍牙禅師の語句が引用された理由について、道元禅師の直弟子たちは以下のように註釈しておられる。

文の如く心得べし。
    『正法眼蔵抄』「渓声山色」篇


・・・考えすぎは良くなかったな。

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