そこで、この記事では、勉強会で申し上げることをまとめているときに改めて、以前から気になっていた、「海印三昧」巻冒頭の一節について、私見を開陳してみたい。大学院生だった頃にまとめた、ゼミ用の予習ノートを見返していたところ、「海印三昧」巻冒頭について、「本則の場所が不明瞭」「これ、別の本則があったのではないか?」という書き込みがされていた。最初は、記憶の彼方にあったことなので、何のことか本人が分からなかったのだが、色々と考えている内に思い出した。それは、本文をご覧いただければ分かる。
①仏言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起、此法滅時、不言我滅。前念後念、念念不相待、前法後法、法法不相対。是即名為海印三昧。
この仏道、くはしく参学功夫すべし。得道入証は、かならずしも多聞によらず、他語によらざるなり。多聞の広学は、さらに四句に得道し、恒沙の遍学、つひに一句偈に証入するなり。いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず。おほよそ、本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり。
②<仏言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅。前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相対。是即名為海印三昧。>
いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。このときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。
起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。このゆえに、起は知覚にあらず、知見にあらず、これを不言我起といふ。我起を不言するに、別人は此法起と見聞覚知し、思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。
『正法眼蔵』「海印三昧」巻、①②の数字は拙僧
②に該当する山括弧<>の部分をご覧いただければ分かるのだが、その前に①の部分で同じ本則が出てしまっている。にもかかわらず、また述べているのである。これは、『正法眼蔵』の写本の状況に於いて異なっていて、春秋社『道元禅師全集』第1巻の註記では以下のような指摘がある。
仏言…―主に六十巻本系にはなく、多く七十五巻本系に見られる。今は底本・抄本に準じ挙ぐ。
前掲同著120頁、カナをかなにする
これは、「②」についての註記である。つまり、75巻本系統では、①及び②がある場合が多いけれども、60巻本系統には②が無い場合が多いという指摘になる。ここまでは伝えられてきた文献を比較した上の話であるが、内容から考えてみると、先に拙僧がノートに書いたような疑問が出てくる。それは、まず、他の『正法眼蔵』を見ても、同じ本則をこれほど近くで2度挙げる例はないから、どちらかは誤って記載されてしまったものであろう。ただ、誤解だと認識されていなかった様子は、道元禅師の直弟子達である詮慧禅師・経豪禅師などによってまとめられた『正法眼蔵抄(抄本)』にも、この箇所がそのまま掲載されているため、理解を難しくするのだが、端的に文脈から考えた時、①と②、どちらにあった方が良いといえるだろうか?
拙僧つらつら鑑みるに、(写本レベルでは確認されていないようだが)合理的なのは②である。その理由については、『正法眼蔵』とは、一部の巻を除いて多くの場合、仏典や祖録などから引用された「本則」があって、その宗義・語義を道元禅師が提唱されるという方法で構築されている。実感が持てないという方は、それこそ実際に本文をご覧いただければ良いと思うし、上記に引用した文章でも良いと思う。それで、「海印三昧」巻冒頭の場合、『維摩経』と馬祖道一の言葉を合揉してできた「仏言」の一文について、その提唱が適確に行われているのは、②よりも後ろの文章である。
①にも、「この仏道」とあって、何らかの引用文があるように思われるが、実際には「得道入証」「多聞の広学」「恒星沙の遍学」「四句」「一句偈」「本覚」「始覚」といった多くの単語があって、それに該当するような「本則」があるように思う。例えば、「四句」といえば、正しき道理が言説を超越していることを受けて、「離四句、絶百非」などともいうが、この場合には、すぐ後に「一句偈」とあるから、その「離四句」で使われているわけではない。端的に「四句で表現された道理」ということであろう。
そうなると、①の部分には、何か「四句」で表現された道理でもあって欲しいものだが、「仏言」で引用されている内容は、「十二句」を「是を即ち名づけて海印三昧と為す」とされていることになる。つまりは、数が合わないし、文脈も合っていないのである(なお、「得道入証」「多聞」などの語が想起できるような、適切な「四句」は、拙僧の管見の限りは見当たらなかった)。①の提唱として考えれば、①~②の間にある文脈は、異質であるといえる。よって、75巻本系統の写本では、一部で②に、「本則」が挿入されていることになる。こちらは、極めてその後の文章との交通も良く、整合性がある。
「いはゆる海印三昧の時節は、すなわち但為衆法の時節なり・・・」から始まる内容は、明らかに「本則」を受けたものであるためである。他の巻に見える提唱の雰囲気とも合致する。そうなってみると、この「海印三昧」巻冒頭の状況というのは、何かしらの混乱があったものと思わざるを得ない。無論、『正法眼蔵』という著作は、これ自体「未完の大著」であることは能く知っておいて良い。ただし、だからといって、中途半端なものとして貶めることもできない。75巻本系統、12巻本系統という体系を持つ大著ではあるが、全体としては未整理な部分もあるといえ、更には、「八大人覚」巻の奥書をそのまま採れば、75巻本は書き直される可能性もあったわけで、その意味でも「未完の大著」といえる。ただし、我々法孫としては、そのような未完かどうかは問わず、とにかく学ぶことが大切である。
そのことからすれば、今回の記事は冗長だということは分かっているのだが、それでも、他の箇所と、明らかに「提唱への入り方」が異なっていることに鑑み、或いは、写本によって「本則」の場所が違っていることも思うと、無造作に捨て置くわけにもいかず、いざ、それを聴講者の方々を前にお話しする際の備忘として、この記事を書いたのである。それを今の時期にアップしてみた。
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