そこで、今年は、あくまでも「断臂」という言葉が、その後の禅宗でどのように用いられたか、その一端を見ておきたい。
上堂に云わく、
黄梅の夜半、伝心の偈、
少室巖前に断臂する時、
肉剔りて瘡を作すも痛みを知らず、
直に至り今の如きは是非を成ず、
払子を以て禅床を撃ちて、下座す。
『黄龍慧南禅師語録』
中国臨済宗黄龍派の黄龍慧南禅師の語録から、上堂語を引用してみた。慧南禅師が上堂されていわれるには、黄梅山での夜半に、伝心の偈が詠まれた。それは、嵩山少林寺の少室峰の達磨大師が面壁九年していた巌前で、二祖が断臂したためであった。その時、肉を剔って、傷が出来ても、二祖は痛みを感じなかった。
それが、今に至れば、様々な是非に関する意見も出て来るが、そのような分別心を、慧南禅師は払子で法座を撃つことで否定し、法座から降りられた。
ここで確認をしておきたいのは、「伝心の偈」であろう。もちろん、ここでは後の裴休が詠んだ「伝心偈」のことではないのだろう。二祖自身が詠まれた「覓心了不可得」という句をこそ指していると思われる。
これは、先に挙げた記事をご覧いただければ良いのだが、心が不安だという二祖に対し、達磨大師が心を持ってくれば、安心させてあげようと答えた。二祖は心を探した際、その心の真相を、「覓心了不可得」と述べたのであった。
つまり、最も奥深いところの「不可得」こそが、一切の安心へと転化されていくのである。二祖は自らの臂を断ち切ったが、身体へのとらわれを脱し、また、心も不可得であった。
今日は、そのような自己自身の真実に気付く機会であることだろう。
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