頼吒和羅、自ら思惟するに、「仏の経戒の如きは、居家は宜しからず。居家は自ら仏道を浄学すること能わざるなり」。
『頼吒和羅経』
以上の通りで、これは世尊の下で出家の可否を回って、親子の対立があった事例として知られる『頼吒和羅経』の一節である。同経典は、或る長者の子供であった頼吒和羅という名前の者の出家に関する話なのである。そこで、或る時、世尊が経・戒を説いたところ、非常にその教えに感服したこの者は、居家(在家)では世尊の教えや実践を学ぶことが出来ないと考え、出家を志した、という話をしているのである。
世尊、云何が菩薩摩訶薩、修治して常に出家の業を楽うや。
善現よ、若し菩薩摩訶薩、一切の生処にて、恒に居家の牢獄喧雑を厭い、常に仏法の清浄出家を欣うは、能く礙と為ること無し。是れを菩薩摩訶薩、修治して常に出家の業を楽うと為す。
『大般若経』巻54「初分弁大乗品第十五之四」
これは大乗経典であるが、ここでは大乗の修行者たる菩薩が、何故「出家の業」を願うのか?という話をする中で、居家(在家)を「牢獄喧雑」だとし、それからの離脱を願うためだとしている。つまり、世間や家族をしがらみだと見て、それを「牢獄」だと表現して批判しつつ、出家については「清浄」とし、かつ「礙」が無いとしている。
ここに見える、大乗仏教でも「出家」を尊しとする傾向については、個人的に学び直したいと思っている。理由は、本来「菩薩」というのは、出家/在家という区分をどこか無効化する可能性もあるためである。とはいえ、上記のような教えも見られるので、興味深く感じているのである。
そこで、同じように大乗仏教の典籍に於ける「居家」を見ておきたい。
問うて曰く、若し居家戒ならば天上に生ずることを得て、菩薩道を得る。亦た涅槃に至ることを得るは、復た何ぞ出家戒を用いんや。
答えて曰く、倶に度を得ると雖も、然し難易有り。居家、業に種種の事務生ず、若し道法に専心せんと欲すれば、家業、則ち廃すべし。若し家業に專修せんと欲すれば、道事、則ち廃る。取らず捨てず、乃ち応に法を行ずるは、是れを名づけて難と為すべし。若し出家して俗を離れれば、諸もろの紛乱を絶して、一向に專心して、行道、易きと為す。
『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅波羅蜜義第二十三」
結局、上記の通りなのだが、先ほど申し上げた出家/在家の区分について、こちらでは涅槃に至るには出家戒を用いる必要があるとし、居家戒(在家戒)との明らかな区分を示しているように見えるのだが、実際には「倶に度を得る」として、出家/在家のどちらでも良いというような立場を示しているように見える。
ところが、「難易」があるという。これは、涅槃に至るための難易を意味し、特に、居家のままでは、様々なしがらみなどが残るため、仏道修行に専念することが出来ず、よって、家業を全て捨てるべきであるという。ところが、実際には捨てることも出来ず、何となくの立場であり続けることとなり、これをもって「難」としている。
一方で、出家して俗を離れれば、これは余計な混乱などを得ることもなく、ひとすじに仏道修行に専念できるので、これを「易」としているのである。いわゆる「易行道」という観念では、そもそも出家すること自体が「難」ではないか?と見る向きもあるかもしれないが、その辺は尺度が涅槃を得ることにあると見て考えるしかない。
以上のように、簡単に見てきたが、「居家」を手がかりに、仏教に於ける出家と在家の関わりを論じた文脈を幾つか見てきた。
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