つらつら日暮らし

『浄土布薩式』「大科第二 諸衆生可住和合念」(『浄土布薩式』参究3)

毎月の連載として『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。今回は、全十六章でなっている「布薩式」の「大科第二」を見ていきたい。

大科第二 諸もろの衆生、和合の念に住すべし、唱えて云うべし、
  諸衆同じく和合海に入り、同一法性にして分別無し、
  若し和合実相海に入れば、同く頓教一乗の味を嘗む。
    『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方


これが、「大科第二」であるので、2つ目の項目となる。そこで、タイトルにもしてみたが、「諸もろの衆生、和合の念に住すべし」とあるので、布薩に随喜した四衆に対し、「和合衆」になることを促したといえる。しかし、今回は「布薩」であるが、何故そこに「和合衆」であることが求められているのか。

すると律蔵を見てみると、以下の一節を見出した。

中間の布薩とは、比丘の布薩有りし時、若し僧、和合せざれば、一比丘、僧中に於いて唱えよ、「若しくは僧の和合の時、当に布薩を作すべし」。
    『摩訶僧祇律』巻2


以上の通り、律蔵の中には、布薩成立の条件に「僧和合」を挙げる場合があると確認された。他にも、『五分律』『四分律』などでもほぼ同じようなことを述べているので、一種の決まりだったのだろう。

さて、それから、上記では伽陀を唱えているけれども、この典拠は不明である。おそらくは、この「布薩式」のために詠まれたものである。何故ならば、これは平仄が合っていない。中国で詠まれた場合、意味はもちろんのこと、平仄もしっかりと合うことが多い。よって、おそらくは日本で作られた伽陀なのである。

ただ、意味だけは採っておきたい。もろもろの衆生が同じ和合海に入れば、同一法性となり、分別は無い。もし、和合の実相海に入れば、全員が同じく直ちに仏陀となる一乗の味を嘗めたのである。「大科第三 灑水」に続く。個人的には、江戸期に多く作られた「布薩式」の註釈書なども見ておきたいが、それもかなり難しい記事になってしまうので、今回はまず「布薩式」の解明を期したい。

【参考資料】
・宗書保存会『続浄土宗全書』巻15、大正14年
浄土布薩式(新編浄土宗大辞典web版)

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