復た次に、憍尸迦よ。是の善男子・善女人、是の深般若波羅蜜を聞き、受持・親近・読誦し、正憶念して、薩婆若心を離れざれば、若しくは毒薬の熏を以てしても、若しくは蠱道を以てしても、若しくは火坑を以てしても、若しくは深水を以てしても、若しくは刀殺せんと欲し、若しくは其の毒を与えんとするも、是の如き衆悪、皆、傷つくること能わず。何を以ての故に、是の般若波羅蜜は、是れ大明呪、是れ無上明呪なればなり。
鳩摩羅什訳『大品般若経』「大明品」
とりあえず、これを読みますと、世尊は弟子に対して、優れた信仰を持つ良い男女が、この深き教えである「般若波羅蜜」の道理を聞いて、忘れず、親しみ、読み、正しく思惟して、一切智の心を離れることがなければ、この者を傷付けようとする者が、毒薬の薫りをかがせたり、或いは呪殺に用いる虫を使ったり、火の坑や水に落としたり、刀で斬りつけたり、毒殺しようとしても、傷付けることができないというのです。そして、世尊はその理由を、「般若波羅蜜」が「大明呪」であり「無上明呪」であるからといいます。「般若波羅蜜」が「呪」であるという発想は、かの玄奘三蔵訳『摩訶般若波羅蜜多心経』にも出て来ますね。
故に知るべし般若波羅蜜多、是れ大神呪なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり。能く一切の苦を除く。真実にして虚ならず。
訓読してみましたが、末尾の方にある「こーちーはんにゃーはーらーみーたー、ぜーだいじんしゅー、ぜーだいみょうしゅー、ぜーむーじょうしゅー、ぜーむーとーどーしゅー、のうじょういっさいくー、しんじつふーこー」の部分です。「呪」はマントラの訳語であり、真言ということです。つまり、この『般若心経』で説かれる教えは、真実の言葉であるということになるでしょう。また、それ自体が、不思議なはたらきを持ち、素晴らしき智慧であるという意味もあるようです。
そして、先に引用した『大品般若経』でも、同じ意味で「大明呪」などの用語が使われています。余りに、「般若波羅蜜」の教えが素晴らしいために、先に挙げた様々な功徳があると信じられているわけです。なるほど、『観音経』では、その主体に、「観世音菩薩」という人格を持った救済者が捉えられていますけれども、こちらでは「般若波羅蜜」という偉大な智慧そのものが、その救済主体になるわけです。何とも不思議な感じですし、どう考えてみても、『観音経』の方が分かりやすそうです。ただ、もうちょっと本文を見てみると、何故有り難いかも分かる気がしますので、見ていきます。
若し善男子・善女人、是の明呪の中に学べば、自ら身を悩まさず、亦た他を悩まさず、亦た両つながら悩まさざるなり。何を以ての故に、是の善男子・善女人、我を得ず、衆生を得ず、寿命を得ず、乃至、知者、見者、皆な得べからず。色・受・想・行・識を得ず、乃至、一切種智も亦、得べからず。得べからざるを以ての故に、自ら身を悩まさず、亦た他を悩まさず、亦た両つながら悩まさざるなり。是の大明呪を学ぶが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。一切衆生の心を観じ、意に随って法を説く。何を以ての故に、過去の諸仏も是の大明呪を学びて阿耨多羅三藐三菩提を得たり。当来の諸仏も是の大明呪を学んで当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。今現在の諸仏も是の大明呪を学んで阿耨多羅三藐三菩提を得ればなり。
「大明品」
この素晴らしい真言の中に教えを学べば、自分自身の悩みは消え、他人をも悩ますことはないというわけです。そして、何故ならば、当然『般若経』で説く「般若」とは、「空」のことですけれども、色即是空なので、我や衆生や寿命や、五蘊(色とか受とか)も得ないというのです。問題はこの「得ない」ということなのですが、これが結局のところ「執着を離れる」という発想に到ります。その発想に到るが故に、事象を正しく見極めることが出来るわけで、結果的に「阿耨菩提」を得るわけです。『大品般若経』では、この教えこそ、過去仏・現在仏・未来仏という三世の諸仏が学んだ法だとしています。哲学的なことだけに意味を見出そうとする人は、後半部分にだけ興味を示すでしょうし、そういう難しいことは良いからとにかく信じたいという人は、前半部分こそ大切でしょう。
しかし、『大品般若経』「大明品」は、その「大明呪」である功徳を説くための場所だということを思いつつ冷静に見れば、その思想的な内容と、功徳的な内容とが両方具わっています。つまり、それだけ柔軟だということです。どちらが一方に偏ることは、おそらく思想的には「正しい」のかも知れませんが、経典自体の「生残」には寄与しないのです。
以前、どこかの記事で述べたことがあったように思うのですが(自分で調べきれませんでした・笑)、『妙法蓮華経』を始め、多くの大乗経典では、経典を広めること(広宣流布などと呼ばれる)ことが、功徳発動の手段として紹介されています。それは、受け手側から見れば、良い教えを他人に勧め、同時に自分も良い功徳を得るということになりますが、経典の側か見れば、自分自身の生残こそが目的であるという見方も可能です。その意味に於いては、経典自体を捨てられないようにするために、良い功徳を満載にするしかない、しかも、対象を選定する場合にも、常に人間社会で「少数派」であっただろう知的エリートだけを相手にするのではなくて、学が無い庶民にも保ってもらわねばならないという発想になり、結果「マントラ」に行き着くということになるのではないかな、とか思ったわけです。
そんなわけで、とりあえず「空」の教えばかりが説かれていると思いがちな『般若経』、それは『般若経』とはとどのつまり、「色即是空・空即是色」だという発想に到るからだ、という大雑把な説明を受けてのことですが、しかし、読んでみれば、現代にまで伝えられる意義が十分に具わっている経典であると理解できますね。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教8〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
コメント一覧
tenjin95
維摩詰
愚かなプレジデンテ
愚かなプレジデンテ
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事