開闢檀那如是の事
永平寺建て初めの夜、開山和尚と法談の次で、誓願を立て云く、
○願くは我、生々に三宝を外護せんことを。
○願くは我、世々に信心不退ならんことを。
○願くは我、不退に大菩提を証せんことを。
○願くは我、一切衆生を済度せんことを。
開山大和尚、誉て云く、回心向大の願文なりとてこれを聴許す。
『建撕記』
「如是」というのは、波多野義重の「法名」である。院号とか、道号とか、位階まで付けた場合には、「大仏寺殿如是源性大居士」となっている。いわゆる武士に能く見られた「寺殿号」であるが、それを含めて格式の高い名である。その格式の高い名を貰っている(どのタイミングではか不明)波多野義重公であるが、その「願い・誓願」もまた、極めて格式の高いものであった。これがいわれたのは、大仏寺(後の永平寺)を建て始めた夜であるという。日付は、寛元元年(1243)の閏7月17日で、京都から移動してきて1か月も経たない間のことである。
このことからも、拙僧は、道元禅師が京都から追い払われるようにして移動してきたのではなくて、用意周到に移動を計画されて、越前に趣き、そして良地を選ぶという手順を踏んで、永平寺(大仏寺)を建立したように思うのである。確かに、曹洞宗以外の、天台宗系統の文献に、『護国正法義』に関連して道元禅師が追放された可能性が指摘されているが、この信憑性は、如何なるものなのであろうか?実際、道元禅師自身は、追放されたことなどを書いてはいない。むしろ、伝記資料では、京都にいる間にも地方への移動を望み、その念願叶って、越前に趣いたように見えるのだ。
まぁ、この辺は、追放を不名誉として書かない可能性(しかし、他宗派の場合には、自らの信仰を確認するきっかけに使うこともある)などもあるだろうから、一概には結論できないが、しかし、考えておいて良いと思う。
さて、主題に入るが、波多野義重公が立てられた「誓願」の内容である。4項目が挙げられているが、1つは、「三宝外護の誓願」である。三宝とは、いうまでもなく、仏・法・僧を、それぞれ仏教になくてはならない「宝」と捉えて尊ぶ言い方であるが、義重公は、この人生のみならず、生まれ変わり生まれ変わりしても、ひたすら外護すると述べているのである。続くのは、「信心」のことである。義重公は、こちらもやはり、幾ら世を重ねても、信心が退くことがないように願っている。信心は、容易に退転する。それは、外的な要因、内的な要因、様々であるが、それを否定せんと願う気持ちは、痛い程分かる。
3つめは、大菩提を明らかにすることを願っている。これは、おそらくこの間に「出家」が入っているのだろうと思う。幾たびかの生まれ変わりの中で、縁が出来て出家することが契えば、当然目指すは、菩提の成就である。それを素直に明らかにしているのだが、菩提を成就して、それで仏道修行が終わるわけではない。その後は、自らの菩提を衆生に回向して、その済度を願うことが肝心である。よって、義重公は、自らを、「大乗の菩薩(この段階では、「在家菩薩」)」だと位置付けているのである。
道元禅師はまさに、大乗の願文だとして、これを認めた。自らをしたって集まってきた在俗の弟子に、このような素晴らしい誓願を立てる者が出るに到り、大いに喜ばれたことは想像に難くない。このような素晴らしい外護者によって建てられる永平寺が、悪いはずがない。だからこそ、その素晴らしい因縁が永遠に続くように願って、道元禅師は次のように述べた。
諸仏如来大功徳、吉祥中の最無上、
諸仏倶に来たってこの処に入る、是の故にこの地、最も吉祥なり。
『建撕記』
ここから永平寺の山号が「吉祥山」になったと伝える(一時期の資料では、「傘松峰」であったともするが、古伝には見えず)。寺檀関係が円滑に運営される寺院になれば、それこそが大叢林といえるのである。道元禅師は中国臨済宗の慈明楚円禅師の言葉を引いて、道心のある者がいる場所を「大叢林」とすると述べた。出家者であれば、当然に不染汚の修証の遂行に他ならないが、在家信者の道心とは、三宝の外護である。
大仏寺は、それがそろった最高道場であったに違いないと思うのだ。
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