つらつら日暮らし

「昭和の日」に『昭和人事総覧』へ一言

今日4月29日は「昭和の日」で祝日となっている。何故、この日が「昭和の日」かといえば、拙僧どものような昭和生まれにはよく分かっていて、元々が昭和天皇の誕生日として祝日だったからである。昭和天皇が崩御されてからは、「みどりの日」という名称で残されたが、結果として同日は「5月4日」へ移動となり、4月29日は「昭和の日」となった。

平成生まれには意味が分からない祝日だとは思うのだが、拙僧どもには、或る種の哀愁を感じさせる祝日である。よって、毎年この日には、昭和とは一体何だったのか?といったようなことを考えるようにしている。とはいえ、政治や社会についてのみ考えると堅苦しくなるから、緩いネタではある。

今年は、『昭和人事総覧』(聯合人事調査通信社、昭和4年)という当時の「年鑑」のような書籍から、昭和初期の仏教、就中曹洞宗について採り上げてみたいと思う。今風にいえば文化庁文化部宗務課で出している『宗教年鑑』のようなものにも見えるが、同書は別に、宗教に限った内容ではない。「人事」というのは「人の世界のこと」という程度の意味であって、あらゆる分野のデータが載っているのである(気になった人は、「国会図書館デジタルコレクション」からご覧いただきたい)。

さて、仏教界に関する記述は主として「仏教各宗の起原」(41~43頁)と「仏教各派の状態」(43~48頁)の2箇所であり、両方ともに曹洞宗のことが書かれているので、見ておきたいのだが、ちょっと不思議な記述となっている。まずは、禅宗各派全体(でも、何故か黄檗宗は省略)を見ておきたいと思う。

  禅宗
 後鳥羽天皇の朝、栄西法師が入宋して之を我国に伝えた。栄西は即ち円光(原文ママ)国師である。
  曹洞宗
 後堀河天皇の朝、道元禅師が之を弘めた、道元は即ち宇治の道元である。道元は大正天皇から照陽(原文ママ)大師の諡号を賜った。
    43頁、字句を読みやすく改める


・・・実は、記事を書くに当たって、本書を刊行した「聯合人事調査通信社」について、ちょっとだけ調べたのだが、よく分からなかった。よって、引用した記事についても、誰がどういう経緯で書いたのか、分からなかった。ただし、奥付には著者名があって、「千葉定雄」とあった。どこをどう調べるべきか分からなかったので、とりあえずネット検索をしてみると、明治時代末期に北海道東部の現・湧別町内にあった小学校で校長をした人に同姓同名がいたようである。でも、同じかどうか分からない。先の『総覧』では東京府内(現・東京都内)の住所となっている。

もうちょっと時代が経つと、また色々と分かるかもしれないので、まずはその指摘のみをしておいて、その著者に一言いいたい。何故、「臨済宗」「曹洞宗」という区分ではなくて、「禅宗」「曹洞宗」なのだろうか?それに、栄西法師と道元禅師の諡号が、両方とも間違えているというのはどういうことなのだろうか?参考までに、栄西禅師は「千光国師」であり、道元禅師は「承陽大師」である。ついでに、道元禅師は明治12年に諡号を賜っているので、明治天皇からとなる。また、「宇治の道元」で分かるのだろうか?無論、宇治の興聖寺は道元禅師初開の道場として知られているが、歴史的には現在地にあったわけでも無いし、普通に「永平寺の道元」の方が分かるのではないだろうか?先ほどの誤記も含めて、この辺でかなり怪しいと気付いてしまったのだが、仕方ない、続けて論じてみよう。

『臨済宗』所謂る禅宗で、此の宗派からは最も多く名僧智識を輩出してゐる。而して寺門も亦頗る興隆し、檀信徒の多きことは真宗に次ぐであらう。
 天龍寺派 寺院一一四、住職八九、檀徒四〇,四二五、信徒七,六六九、大本(※「山は」が抜けている)京都府下嵯峨村の天龍寺
 相国寺派 寺院一一一、住職八六、檀徒二四,九四二、信徒一三,八六九、大本山は京都市上京の相国寺
 右の外に建仁寺派、南禅寺派、妙心寺派、建長寺派、東福寺派〈以下略〉
『曹洞宗』寺院が一四,二三〇、住職が一一,八七一、檀徒が六,一五三,六二七、信徒が三一七,八四三で、大本山は福井県吉田郡志比谷の永平寺と、神奈川県横浜市鶴見区の總持寺とである。
    46頁


・・・先ほどは「禅宗」と「曹洞宗」という風に区切っていたのに、今度は「臨済宗」と「曹洞宗」になったので、多少は是正されたのか?と思いきや、この辺は微妙である。何故ならば、「臨済宗」の説明内容は、「所謂る禅宗」となっており、「檀信徒の多きことは真宗に次ぐであらう」という指摘には、多分に曹洞宗のことも入ってしまっているためである。

数字的なことをいえば、臨済宗で挙がっているのは上記の通り天龍寺派・相国寺派であり、大変に失礼ながら両方とも派として組織が大きいというイメージは持ち得ていない。無論、歴史的な文化などは、我々曹洞宗が全宗一丸となっても及ばないと思う。しかし、本書の著者は、檀信徒の数の多さなども指摘しているので、いわざるを得ない。

曹洞宗の数字は、これをどこから引いたのか知らないけれども、当時の政府が出した文献にでもあったのだろうか?寺院に比べて住職の数が極端に少ないけれども、そんなものだったのだろう。今も昔も、(拙寺を含む)地方寺院は大変だったと思われる。

それで、結果としていえることは、現在の『宗教年鑑』もそうなのだが、禅宗三派については認識が曖昧で、誤記が多いのである。この辺、浄土真宗はもう少しマシであり、意外と浄土宗諸派や日蓮宗諸派の関連項目は充実している。参考までに、色々と拙ブログにもコメントしてくれる関係者が多い印象の「日蓮正宗」は、寺院数69、住職51ということで、ウチの宗派的には1都道府県レベルにも達しない。拙寺がある宮城県栗原市内の曹洞宗寺院数・同住職数並みではある。

今日は「昭和の日」ということで、昭和初期の仏教について記録した文献を見てみた。だが、結果は残念といわざるを得ない。特に本書の序文に於いて、「諸賢は昭和の聖代を如何に見給ふや」と、時代認識を問い、その結果としての本書というような大風呂敷を広げているからには、尚更に期待してしまったが故に、とても残念であった。

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