◎問ふ、然らば此法は何時にても、随意に之を行ふて然るべき筈なるに、毎年七月十五日と定めたるは如何なる訳なるぞ、又此法は如何なる縁起によりて始まりたるものなりや、委しくその由来を示せ
○答ふ、これは目連尊者がその亡母をたすけ玉ひしより始まりしものなり、今ま盂蘭盆経によりて、その来縁を按ずるに、〈中略〉其母は哀れ餓鬼道に生じて苦みを受くること無量なり〈中略〉ソコデ又仏目連尊者に告げ玉はく、七月十五日は十方より集まり居れる衆僧が、自恣とて随意に休暇(ドンタク)を催ふして、既往三箇月中の善し悪しを述べ、甲乙互に懺悔滅罪を為す喜ばしき日柄なれば、其時を幸ひとして当に盂蘭盆会を設くべし、盂蘭盆会と云ふは、過去七世の父母、及び現在の父母、厄難の中に在る者の為めに、山海の美味珍物、及び五菓百味の飲食を盆器に盛り、清浄の坐席を設け、其上に於て十方の大徳自恣の衆僧に大供養を営むなり、〈中略〉其れ此等諸の大衆を供養することあるものは、現世の父母六親、及び眷属に至るまで、此功徳によりて未来は必ず三途八難の苦界を出ることを得て、衣食住に満足ならむ、現在の父母は福寿延長し、若し過去七世の父母は天堂に生れて自在を得むと
『盆の由来』第八問答・8~10頁から抄述
盂蘭盆会の直接の起源とされる、衆僧への自恣供養について述べられた一節である。そのため、「七月十五日」という日付が出てくるわけである。
前段階の知識としては、いわゆる「雨安居」の話があるが、特に東アジアでは安居を4月15日~7月15日と定めて行われてきた。そして、その最終日には上記一節にあるように、「自恣」といって、安居に随喜した僧侶同士がお互いの罪を言い合って懺悔し、清浄になるとされた。
そして、『盂蘭盆経』では、その日にこそ衆僧を供養すれば大きな功徳が得られるとしたのである。なお、同経にはしっかり、「十方の衆僧、七月十五日に於いて僧、自恣するの時」とあって、日付もしっかりと書かれている。
そこで、この日に供養すれば、現在の父母は福寿延長し、過去七世の父母の天堂(天上界)に生まれて、自在に生きることが出来るという功徳が示された。
よって、ここから「七月十五日」に盂蘭盆会を行うことについては、問題無く理解出来よう。実際に、この問答は上記を説明するだけである。しかし、この次の問答に於ける高田先生の見解は注目に値する。
而して七月十五日は、夏安居の竟る時なり、此日を自恣と云ふは、自分の罪をば他人の口に任せ意に任せて、恣に言はして、以て己れに反省して発露懺悔を為すの意なり、故に随意とも云ふ、今時は自恣の名ありと雖も、其実は行はれず、禅家に於て自恣を為すと云ふは、斎会を設くる事となれり、是は目連尊者の盂蘭盆供に像りたるものならむと思はる、而して又此時を盆と云ふに至りたるも是より始まりたるものなり
前掲同著第九問答・14頁
何が注目されるかといえば、「自恣」の扱いについて、当代には既に行われていないけれども、「禅家」にはあるとしつつ、その内容は「斎会」であるとした。つまり、夏安居修了を期して、何らかの食事等を行ったことを意味する。ただし、むしろそれは、『盂蘭盆経』に依ったものではないか?としているのである。
つまり、或る種の逆転の発想ともいえる。この高田先生の見解について、実証はまた何かの機会に行いたいが、非常に興味深い見解である。
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