・「修行期間」なのにタイに遠征ゴルフ…海印寺僧侶だった=韓国(中央日報)
以上の通りなのだが、ここでいう「修行期間」というのは、10月15日から1月15日まで行われる「冬安居」のことである。しかし、海印寺の上層部に属する僧侶2名が、タイにゴルフに行っていたらしく、それが批判されているようだ。なお、今回が初めてではなくて、過去にも同様の問題が起こしているようなので、ちょっと別様の感想を抱いた。
つまり、韓国仏教界も、「世俗化」が進んでいるのではないか、という話である。
日本は元々、一部宗派で僧侶の結婚が行われるなどしていたが、明治時代に入り、当時の国の宗教政策の関係もあって、僧侶の結婚について、国が規制することが無くなった。現代は、政教分離と信教の自由の関係で、尚更に自由になっている。その点、韓国ではどうなっているのだろうか?
当方、韓国の法律などには詳しくないので、何とも申し上げようがないが、ネット時代なわけだから、少しく調べてみた。すると、『韓国憲法』の中に、以下の記載があることを知った。
第20条 ①全ての国民は宗教の自由を有する.
②国教はこれを認めず,宗教と政治は分離される.
一応、引用した文章は「第六共和国憲法」であり、1987年に改憲された現行のものだという。ここからは、単純に宗教の自由(信教の自由)と政教分離が謳われているようである。
そうなると、例えば今回の僧侶たちの行いについては、法律で裁くことにはならない。もちろん、今回の「タイへのゴルフ遠征」に、何らかの違反行為などがあれば話は別だが、それはゴルフ自体が悪いということではない。そうなると、後は、僧団での決まりである、「冬安居」をしなかったことと、ゴルフが戒律違反に当たるかどうかが問われることになるだろう。
まず、前者については、確かに安居中は「禁足」といって、籠もっている寺院から外に出ないことが基本である。ただ、一方で禁足を破ったことは、罪を得るのかどうか?更に得るならばどれくらい重いのかが気になるのである。
時に舎衛城の人、祇洹に渠を作り水を通さんと欲す。
波斯匿王、聞きて言わしむ、「若し祇洹に水を通す者有れば、当に大罪を与うべし」。後に辺境に事有りて、王自ら出征す。後に諸もろの外道、并びに力めて渠を通さんと欲す。
諸もろの比丘、此の語を以て優婆塞に語る。諸もろの優婆塞言わく、「此れ我等が制する所に非ず、往きて王に白すべし」。
諸もろの比丘言わく、「世尊、安居中に七日を過ぎて往返することを聴さず、王、此を去ること遠し、何に由りてか往くことを得ん」、便ち以て仏に白す。
仏、是の事を以て比丘僧を集め、諸もろの比丘に告ぐ、「今より、若しくは仏法僧の事、若しくは私事有れば、七日の外、更に白二羯磨して十五日を受ければ、若しくは一月日の出界行を聴す」。
『五分律』巻19「第三分之三安居法」
以上の通りである。どうやら、他の比丘達の了承を得れば、最大で一ヶ月の間、外に出ても良かったようである。しかも、上記の内容の場合は、祇園精舎の土地や建物を巡る話であったので、「仏法僧の事」に当たると思うが、ゴルフの場合は個人的な楽しみであろう。そうなると、この場合は「私事」に当たる。
しかし、「私事」であったとしても、ゴルフが認められるのだろうか。こうなると、ゴルフ自体の戒律上の問題を扱う必要があるといえよう。とはいえ、もちろん、ゴルフを直接に禁ずる戒律などはあるはずもなく、インドの球技と言えば「クリケット」が有名だが、これも元々はイギリスの競技であり、インドで広まったのは17世紀以降という指摘もあるようなので、仏教には関係がない(インド仏教は13世紀初めに滅亡している)。
つまり、戒律の拡大解釈が通用すれば、禁止できそうだが、実は仏教の戒律は、拡大解釈を好まない傾向があり、もし、問題が起きるのであれば、後の段階で、正式に禁止項目に加えていたようである(『四分律』の「調部」とは何か?なども参照されたい)。とはいえ、私有財産の制限や、所有物の制限など、幾つもの戒律がこの問題に適用できそうな感じはするが、多くが軽い罪なので、それほど騒ぐ話でもないような気がしてきた。
そこで、改めて冒頭の記事を読んでみたが、戒律的な問題というよりも、道義的問題に見えてきた。そして、道義的問題の多くは、宗教の世俗化とともに、問題では無くなってくるので、韓国仏教界も過渡期なのかな?とか思った。
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