菩薩戒経に云く、「我が本元自性清浄なり」。若し自心を識り見性すれば、皆な仏道を成ず。
『六祖壇経』
以上のような引用文があるのだが、これは実は、「取意」の文章となっていて、典拠とおぼしき一節は以下の通りである。
是の如き十波羅提木叉、世界に出づ。是の法戒は、是れ三世一切の衆生、頂戴受持するところ、吾今、当に此の大衆のために重ねて十無尽蔵戒品を説くべし。是れ一切衆生の戒の本源にして自性清浄なり。
『梵網経』下巻
中国成立とされる『梵網経』であるが、戒の本源に「自性清浄」を設定していることが分かる。しかし、六祖慧能禅師は、あくまでも「我が本元」を自性清浄だとしている。その本元たる自心を知り、見性(自性を見る)すれば、仏道を成ずるという話になっている。この辺、後代の禅宗の文献では、以下のようにも表現される。
梵音・忍茂の二上人、戒を求め、上堂を請す。人人、箇の本源自性清浄戒有り。円満具足し欠無く余無し。
『鼓山為霖禅師還山録』巻1
これは、清代書記の為霖道霈禅師(1615~1702)の語録から引用した教えである。そして、受戒を願い、上堂を請うた者達に対して、本源自性清浄戒があるとし、そのため、功徳が欠けることも無く、余ることが無く、円満だという。
さて、問題は自性清浄戒である場合、破戒などが起きるかどうかである。
性戒と言う所は、自性清浄に了達すると謂う。本来無染、本有の清浄法身を頓悟すれば、性、自ら具足す。故に名づけて戒と為す。
『憨山老人夢遊集』巻11
少し、時代的には為霖禅師を遡るが、憨山徳清禅師(1546~1623)という人の見解である。こちらの記事では、本来、染まることなき本有の清浄法身を悟れば、それが性となり、自ら具足するという。そして、この性自体が戒ともなり、それを「性戒」となるというが、おそらくはこれは戒体でもある。
しかし、これが破戒の否定となるかどうかは、別の問題になるような気がしてきたが、その辺、論じている文献がよく分からなかったので、これ以上深めようがない。今日はここまでにしておくか・・・
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