爾の時、文殊師利、仏に白して言く、「世尊、若し善男子・善女人、菩薩を受け受くる所の戒法、当に云何なるべきか」。
仏、文殊師利に告げ、「応に仏前に至誠に礼拝して、是の如き言を作すべし、「我れ某甲、願わくは諸仏、我を憶念して、諸仏・世尊・正知の如く、仏の智慧・無所著を以て、
我、当に菩薩心を発し、為に一切衆生を利益して安楽を得せしむ。
無上道心を発し、過去未来現在の諸菩薩の如くす。
無上菩提心を発し、一切衆生の如く、父母・兄弟・姉妹・男女・親友等の如きは、彼の為に解脱し生死を出づることを得て、乃至、三菩提心を発さしめ、
精進を勤起して、諸衆生の須いる所の財法に随って一切施与す。
此の財法を以て、一切衆生を摂受し、漸漸に宜しきに随って、為に解脱し衆生、生死を出づる故に、乃至、無上菩提をして安住せしむ。
我れ当に精進を起こすべし、我れ当に放逸せざるべし」と。
是の如く再三す、是れを菩薩摩訶薩初発菩提心と名づく。
文殊師利、此れ諸菩薩の受くる所の所行、為に菩薩を化して、声聞・縁覚と為らず、凡夫・諸不善者と為らず」。
『文殊師利問経』「菩薩受戒品第十三」
訓読は全く自信が無いが、とりあえず理解は可能かと思い、提示しておいた。それで、「菩薩受戒品」とはなっているが、実際の内容は「菩薩の受戒」とは全く関係が無い。一応、冒頭では、文殊師利菩薩が世尊に対し、善男子・善女人が菩薩の戒法を受けるのであれば、どうあるべきか?と尋ねたところ、世尊は、仏前に礼拝し、自らの願いを述べるべきだという。
その願いの内容だが、世尊の智慧をもって、菩提心を発して一切衆生を利益したいと願い、無上道心を発して菩薩のようになりたいと願い、無上菩提心を発して、一切衆生を生死から解脱させ、精進して諸衆生のために財宝に応じて施与し、その財宝で一切衆生を集めて、そして生死を解脱させ、無上菩提を安住させるという。
そして、戒法を受けたいと願う菩薩自身は、精進して、放逸しないという誓いを立てるべきだとされている。
要するに、ここを見ると、具体的な戒律は説かれておらず、菩薩としての発菩提心を中心に、誓願について論じられたことが分かるのである。しかし、だとすると、何故、「菩薩受戒品」というタイトルにしたのかが気になるのだが、やはり冒頭の一句のみを見たからだ、ということになるのだろうか。
また、一部の菩薩戒受戒法では、発心や誓願を強調する場合もあるから、それの対応も考えるべきかもしれないが、現状は能く分からない。
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