つらつら日暮らし

慈雲尊者飲光『十善法語』に学ぶ戒の種類について

葛城の慈雲尊者飲光(1718~1805)には、「十善戒」について提唱・解説した『十善法語』が残されている。成立は安永2年(1773)であり、江戸時代には13冊本として何度か刊行されたようだが、明治時代に入り1冊本としても刊行された。今回は、その明治期の高野山転法輪蔵本を用いて記事を書いてみたい。

且く差別せば、十善を世間戒と云、沙弥・比丘戒等を出世間戒と云、菩薩戒を在家・出家の通戒と云、若し要を取て言はヾ、世間戒も出世間戒も、声聞戒も菩薩戒も、此十善戒を根本とするじや。初心なる者は、世間戒と聞ては少分なることヽ思ひ、声聞戒と聞ては尽さぬことヽ思ひ、菩薩戒と聞ては高く尊きことと思ふ、それは名に著する迷と云ものじや、此十善戒は、甚深なること、広大なることじや。
    『十善法語』1~2頁、カナをかなにするなど見易く改める


これは、諸戒の分類についての話である。ただし、非常に特徴的だと思えるのは、「十善戒」を基準として分類を行っていることであろう。そこで、上記内容を簡単に読み解いてみたい。

まず慈雲尊者は十善戒を「世間戒」であるとし、沙弥戒・比丘戒などを「出世間戒」であるとしている。これは、十善戒は在家者を含めた世間で行われるものであり、沙弥戒からは出家者の出世間で行われるものだということになる。ただ、ここで「出家・在家」という簡単な分類のみで済むかというと、そういうわけでもない。

例えば、上記一節でも出ているが、「菩薩戒」は出家・在家とは別の基準を提示する。上記では「通戒」としているが、要するに世間戒・出世間戒に共通していることを示し、別の基準が適用されているのである。

ところで、上記内容を見ていると、慈雲尊者は世間戒・出世間戒及び声聞戒・菩薩戒ともども、「十善戒を根本とする」と明言している。この根拠はどの辺に設定されているのだろうか。

 人たる道と云は、諸の三蔵の学者、文字の輩は浅きことに思ふべけれども、さうでない。
 華厳十地品、中離垢地の法門には、此十善が、直に菩薩の戒波羅蜜の行じや、
 大日経方便学処品には、此十善が直に真言行、菩薩の学処じや。
    『十善法語』1頁


以上のように、『華厳経』と『大日経』を典拠にしつつ、菩薩の学処(戒に同じ)としての「十善戒」を尊んでいるのである。『大方広仏華厳経(六十華厳)』巻27「十地品第二十二之五」では、「深く十善道を行じ、能く離垢地に到る」とあるし、一行阿闍黎の『大日経疏』巻17「次菩薩戒品受方便学処品第十八」には、「仏、次に更に広く菩薩十善戒相を説かんと欲するは、真言行の菩薩をして疑惑有ること無からしむ」ともある。よって、これらを典拠としつつ、十善戒が菩薩にとっての受戒の根本であることを示しているのである。

しっかりと調べれば、理由も分かるのだとは思うが、三聚浄戒と十善戒とは微妙な緊張関係にあることが分かる。この辺は、もう少し慈雲尊者の教えを学ぶことで、ハッキリさせてみたいと思う。

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