▲九日 重陽の御祝儀、九は陽数也、故に重陽と云、九をかさぬると云心也。
〇菊酒 九月九日蓬餅を食ひ、菊花酒を飲む、かくのごとくすれば人をして長寿ならしむ。〇菊花酒の製法、菊花舒る時、花も茎葉もともに、黍米にまじへてこれを醸し、来年九月九日に至てとり出して、これを飲む。〈二説ともに西京雑記に見〉
三田村鳶魚氏編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、51頁
たいがい、重陽は陽数である九が重なった日という説明がされる。そして、菊花である。季節的なこともあり、今日は「菊の節句」でもある。また、菊は永遠の象徴でもあるから、菊花酒に長寿を期待したのであった。ということで、例年の通りだが、以下には「重陽の節句」に因んだ説法などを学んでみたい。
重陽の上堂。
一句明明たり万象に該り、
重陽九日の鞠花新たなり。
老汾陽、此の一偈を以て、
三玄の骨髓を敲出して臨済の正脈に疏通し、
七花八裂して以て法供養を作し去るなり。
南禅、今晨九日、常住澹薄なり。
茱萸茶の点ずるべき無きなり。
黄栗粽の喫するべき無し。
未だ免れず、例に攀して偈を説き大衆を供養す。
家家に鞠を采りて重陽と作す。
慚愧す東籬昨夜の霜。
㗛うに堪う南禅の貧骨に到る。
無銭の沽酒柴桑酔う。
『義堂和尚語録』巻1「南禅寺語録」
これは、主に南北朝期から室町時代初期にかけて活動した義堂周信禅師(無相疎石禅師の法嗣、1325~1388)の語録から引用した。なお、読み方には全く自信は無い。手元に、版本でもあれば・・・
さておき、これは南禅寺で行われた重陽の上堂である。なお、上記語録に依れば、至徳2年(1385)3月20日に入寺したとあるので、義堂禅師晩年の入寺だったことが伺える。また、この上堂について、語録の順番からすれば、入寺した同年の9月9日に行われたものであることも分かる。
さて、上記内容を簡単に読み解いておきたいが、まず最初の2句だけれども、これは中国臨済宗の汾陽善昭禅師(947~1024)が、「三玄三要」について詠まれた偈頌である。義堂禅師が引いたのは、その後半2句であり、全体は三玄三要の事分かつこと難し、意を得て言を忘る道易親なり。一句明明たり万象に該り、重陽九日の菊花新なり」(『人天眼目』巻1、または『続伝灯録』巻1に収録されている)とあり、これを義堂禅師は「三玄の骨髓を敲出して臨済の正脈に疏通し、七花八裂して以て法供養を作し去るなり」と評したのである。
それで、数合わせ的な話にもなっていて、「三玄三要」で3×3=9となる。そこに至るまでに、「七花八裂」という内的な展開を見せつつ、汾陽禅師が偈頌によって大衆を供養した様子を示す。そして、「南禅、今晨九日、常住澹薄なり」とある通り、重陽の日付を示しつつ、供養をしたいと思っているが、南禅寺の常住物が足りていないとしている。
この日に飲食すべき茶やちまきなども無いという。よって、偈頌をもって大衆を供養するというが、この偈頌の内容が、当時の南禅寺の様子を示している。
家々に菊を採って、重陽を迎えている。しかし、慚愧するべきは、菊を採ろうとした東の垣根(この辺は、陶淵明の「飲酒」という偈頌を踏まえている)は昨夜、霜が降りた。おかしくなってしまうが、南禅寺の貧の学道が骨に染みる。お金を取らない酒でも売れば、柴桑(陶淵明)が酔っ払うだろう、とでも出来ようか。
問題は、偈頌による法供養と、本来ならこの日、菊花酒でも飲むところ、禅寺だからそれが出ずに、無銭の酒という、否定辞を付した仏法の無碍なる働きを示したのであった。
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