持戒の人、無事にして得ず、破戒の人、一切皆な失す。譬えば人有りて常に天を供養するが如し。其の人、貧窮にして四方に乞い求め、供養すること十二年を経て、富貴を求索す。
『衆経撰雑譬喩』巻上
これだが、持戒の人は特に何も無くても、求める物が得られるという。一方で、破戒の人は、一切を皆失うという。このことはとりあえず、そう理解しておくが、問題はその後の「譬えば」以下の内容である。この譬えば以下の一節は、持戒と破戒の人がどうなるか?を示したものだが、たとえ話で示している。
問題は、このたとえ話が何を指しているのか?である。それで、天を供養するという話になっているので、おそらくは持戒の人を指しているのだろう。そこで、この人は、天を供養しているのだが、本人は経済的には苦労していたようで、天を供養するための供物などを、四方に乞い求め、それが12年に及んだのだが、実際には、富貴を求めていたという。
そうなると、富貴を求めていたが、その実態は得られなかったが、しかし、本人は無事に生きていたことを指すのだろう。とはいえ、少し分かりにくいかも知れない。そう思っていたら、『大智度論』に同じ話が載っていた。
持戒の人、無事にして得ず、破戒の人、一切皆な失す。譬えば人有りて常に天を供養するが如し。其の人貧窮なれども、一心に供養して、十二歳に満ち、富貴を求索す。
『大智度論』巻13
ほとんど先に引いた文章と同じだが、わずかに違うのは、「一心に供養して、十二歳に満ち、富貴を求索す」とあることである。つまり、天を供養して、富貴を求めていたということを意味している。しかし、先ほどよりは分かりやすいのは、その供物などを、四方に乞い求めていたのに対し、『大智度論』ではただ、一心に供養していたことを指している。ただし、やはりこの部分だけでは良く分からないのだが、『大智度論』には続く部分が見られる。それを見ていくと、この話の落着点が分かる。
天、此の人を愍んで、自ら其の身を現じ、而も之に問うて曰わく、「汝、何等をか求めん」。
答えて言わく、「我、富貴を求む。心の所願をして、一切、皆な得んと欲す」。
天、一器を与う、名づけて徳瓶と曰う。而も之に語りて言わく、「所須の物、此の瓶より出づ」。
其の人、得已りて、応に意いて欲する所、所として得ざること無し。如意にして得已りて、具さに好舍、象馬、車乗、七宝具足するが如し、賓客に供給して、事事に乏ずること無し。
客、之に問うて言わく、「汝、先づ貧窮なり、今日、此の富の如きを得る所由は」。
答えて言わく、「我れ天瓶を得。瓶、能く此の種種の衆物を出す。故に富、是の如し」。
客、言わく、「瓶を出して見示せよ、并びに出る所の物も」。
即ち為に瓶を出し、瓶中より種種の衆物を引き出す。
其の人、憍泆して、瓶上に立ちて舞い、瓶、即ち破壊す。一切の衆物、亦た一時に滅す。
持戒の人、亦復た是の如し、種種の妙楽、願無くして得ざる。若し人、破戒すれば、憍泆自ら恣ままにし、亦た彼の人の瓶破りて物を失するが如し。
同上
要するに、持戒の人とは、願いが叶ったとしても、そこに把われないことを意味している。しかし、破戒の人、つまりは、自分の心のままに生きる人は、結果として、全てを台無しにしてしまうのである。そのことを、この一節は表現していることが分かった。当方としては、この「持戒の人」の意味することが、未だ把握できていないのだが、しかし、少なくともこのたとえ話の続きを見る限りは、持戒の人は確かに富貴を求めてはいたが、誰かを欺したり、心の中で酷い気持ちを抱いたりすることは無かったわけである。
一方で、破戒の人は、自分で何の努力もしていないのに、ただ嫉妬心に基づくものであろう、おごりの気持ち(憍泆=おごり高ぶりが溢れること)でもって全てを台無しにするのである。よって、心のあり方も含めて、持戒の人の徳の高さを理解出来るのである。とはいえ、その人本人は、徳の高さなどを気にすることも無かろう。是非、そのように生きてみたいものだ。
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