問うて曰く、「仏、初めて得道する時、袈裟を著くるや不や」。
答えて曰く、「白衣にして仏を得る者、有ること無し。要らず三十二相有りて、出家、法衣を著け、威儀具足して煩悩を捨離す。而も復た一切の種智、其の身の内に入るは、王女の喩の如きなる。
若しくは凡夫、若しくは声聞、若しくは縁覚ならば、一切の種智、終に其の身に入らざるなり。仏、苦行すること三阿僧祇劫、縁覚は百劫、声聞は二三身して、亦た得るべきなり」。
『薩婆多毘尼毘婆沙』巻8
以上である。質問は、仏陀が得道した時、袈裟を着けていたのだろうか?と尋ねている。そこで、答えとしては、あくまでも『律』の註釈書の見解ではあるが、在家(白衣)のままで仏道を得ることは無く、必ず、三十二相を具足するという。そして、出家として法衣(袈裟)を身に着け、威儀を具足して煩悩を捨て去るという。
そして、一切の智慧をその身の中に入れることは、「王女の喩え」のようなものであるというが、何のこと?一応、『百喩経』巻4には、「田夫思王女喩」という一章があるが、上記内容と関わるとも思えないので、何か別のものだろうか?それに、それは今回の問題意識には余り関係が無い。
さて、先の一節は『法苑珠林』にも引用されているが、引用文の続きの文章があった。
袈裟とは、秦に言わく染衣なり。結愛等も亦た染と名づくるなり。此の服を著くれば、獣在りても畏れず。是の故に、猟師服を仮りて獣をして遠見せしむ。
『法苑珠林』巻35「会名部第三」
いや、特に袈裟の意義などが示されるのみで、成道とは関係なかった。ただ、袈裟は獣が恐れないため、猟師が身に着け、獣を捕らえやすくなるという効能が示されている。使い方次第か。本来は煩悩から離れるものだということだが、仕事にも使われる万能ぶり。
それにしても、仏陀が得道した時に、袈裟を着けていたとなると、価値を転倒して、袈裟を着けていたから得道した、等という話も出てきそうだ。
善男子、爾の時、宝蔵如来、金色の右臂を伸ばし、大悲菩薩の頂を磨して、讃えて言く、「善哉、善哉。大丈夫、汝の言う所は、是れ大珍宝なり、是れ大賢善なり。汝、阿耨多羅三藐三菩提を成じ已んぬ。是の袈裟衣服、能く此の五聖功徳を成就し、大利益を作す」。
『悲華経』巻8「諸菩薩本授記品第四之六」
以上のようにあって、袈裟が持つ「五聖功徳」を説いているのだが、見てみると、仏の授記を得て、必ず阿耨菩提を証するのが、袈裟の功徳であるという。そうなると、やはり、価値の転倒は起きているように思う。とはいえ、袈裟の功徳は事実であるから、袈裟を着けて修行し、菩提を成就することを常に目指すべきだともいえる。
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