同七月八日、御病重ねて増発す。義介驚きて参拝す。
堂頭和尚示して云く、汝近前し来たれ。
介右辺に近前す。
示して云く、今生の寿命は、此の病にて必ず限りを覚ゆ。凡人の寿命は必ず限り有り。然而ども病に任す可きには非ず。日比見られるの様、我れ随分力人を合し、彼此に医療を加う。然りと雖も全く平愈せず。此れ又た驚く可からず。但だ今生の如来仏法に於いて未だ明らかに知らざるの千万有りと雖も、猶お仏法を悦ぶがごとし。一切邪見を発せざるは正しく是れ正法に依りて正信を取る。其の大意は只だ如来の所談の如し。一切異なり無しとは其の趣を存せらる可きなり。然らば当寺は勝地を為すに依りて、思処を執すと雖も、其れ又た世に随い時に随う可し。
仏法は何れの地を所行の勝地と為すや。但だ国土安穏の間、檀那定んで安穏なる可し。檀那安穏なれば、寺中必ず安穏たり。
然かして汝は寓ま住して已に多年に及ぶ。又た院門の先達と為る。縦い我が滅後と雖も、寺院有らば僧家力を合し我が仏法を守る可し。若し他遊自り本寺に帰り来たらば、庵居寓住、汝の意に任す可し云々。
『御遺言記録』
以上の教えで、問題となるのは「示して云く」からの教えなので、そこを読み解いてみたい。道元禅師は、今生の寿命はこの病で終わりになると自覚しておられ、凡人(凡夫)の寿命には、必ず限りがあるとされる。しかし、「病に任すべきに非ず」という主張があるが、道元禅師の教えとして、特定の状況になった人は、「中夭なし」というので、そのことを指しているかとも思う。そこで、医寮を加えても、平癒しないが、それはむしろ、仏法の主眼の1つに、諸行無常であることを思うと、当然のことだという。また、知らない教えがたくさんあるが、まだ仏法を得ることを悦ぶべきであり、一切に邪見を起こさなければ、正法によって正信を取るという。
それから、仏法に於ける勝地とは何かと言えば、国土が安穏である間は、檀那(檀家)も安穏であるという。檀家が安穏であれば、寺中も必ず安穏になるという。この辺の教え、道元禅師が余り檀那を重視しなかったのでは無いか?という教えを指摘する人もいるが、どの辺が典拠となっているのか、よく分からない。『永平寺知事清規』でも、以下のように示されている。
増一阿含第三に云く「仏給孤に在して諸の比丘に告げたもう、応当に檀越施主を恭敬すること父母に孝順してこれを養い、これに侍するがごとくすべし。施主は能く戒定智慧を成じ、饒益する所多し。三宝の中に於いて罣礙するところ無し。能く、四事を施すが故に、諸の比丘、当に檀越に慈心あるべし。小恩すらなお忘れず、何に況んや大なる者に於いてをや。応に三業精勤にして彼の施主をして福唐しく捐てず、終に大果を得て、名称流布し、また迷者の指示路を得るがごとく、また怖者に無憂畏を与え、帰なきに覆を与え、乏しき者に糧を与え、盲者に眼を得せしむるがごとくならしむべし」と。
然あれば則ち、檀越施主を恭敬し、檀越施主に慈心するは、既に是れ、如来世尊の教勅なり。
『永平寺知事清規』監院章
以上の通りだが、道元禅師も『増一阿含経』(厳密には、荊溪湛然『止観輔行伝弘決』巻四之一からの孫引き)から引いて、檀越施主の重要性を説いており、その上での義介禅師への後遺言であったと拝察される。道元禅師は、義介禅師の長年の随身を評価しながら、寺院運営の件では、僧侶と檀信徒と力を合わせて、正伝の仏法を守るように要請したのである。
義介重ねて云く、去る建長五年七月八日、先師大和尚、義介に示して云く、今生に如来の仏法に於いて、未だ明知せざるの処、千万端有りと雖も、仏法に於いて一切邪見を起こさず。正に是れ正法に依りて正信を取れり。其の趣は只だ日比の所談の如し。一切異議有ること無し。其の旨存せらる可し云々、と。
其の時御前に伺い候は、同じく御座に聴く。若し一類の見解の如きならば、実には先師の仏法に違う可き歟。
同上
その教えについて、義介禅師はまた後に、以上のように述懐された。こちらでは、邪見と正信との関係性である。この場合の邪見とは、この現実を諸法実相とばかり観取すると、凡夫たる自己自身への否定が働かず、ただ肯定してしまうところ(いわゆる、本覚思想的な修行否定論)だが、義介禅師は正しい仏法を、修行を精進することだと把握していた。
道元禅師は、最初期の著作である『弁道話』でも「正信」の重要性を説いていたが、晩年も同様であったことが分かるのである。ここの「正信」とは、自らの修行を進ませるために必要な信心である。「信心」「信仰」にも様々な機能があるが、ただ相手に任せるだけの「信心」もあるが、道元禅師の場合は坐禅修行が、正しく「正伝の仏法」であるがための「正信」である。そのことを学ぶことが出来た教えであった。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事