上野国新田の庄、世良田の本願釈円房の律師、栄朝上人は慈悲ぶかく、智慧かしこくして、顕密ともに学し、説法・説戒まことにたつとかりければ、近国の道俗帰依鑽仰して聴聞しけり。
或時の説戒に、我国辺地にして、仏法時を追てすたれ、如法の僧なきことのかなしき、僧と云は、戒定慧の三学を宗として、出家の五衆といふは、比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼・式叉摩尼也。在家の二衆は、優婆塞・優婆夷也。其位にしたがひて五戒・八戒をもたもち、十戒・具足戒菩薩なんど持つに、出家の形となれるも、戒もたもち、まぼることなし。学ししらざれば、ただ俗の如し。
出家が三衣一鉢を持して、戒を本として、其上に定慧の修行、顕密禅教を習べしとみえたり。三国之風儀かはるべからず。
然るに我国も上代は鑑真和尚、唐都より来て、如法受戒の作法有りけれども、久しからずしてすたれつつ、只髪をそり衣を染て、受戒といひて、戒壇はしりめぐりたるばかりて、化制のをきてもしらず、受随のしなもわきまへずして、空く臘次をかぞへ、いたづらに信施を受る僧のみ僧にみてり。
さるままに異類・異形の法師、世間に多し。なまじいに仏弟子の名をえながら、或は妻子を帯し、或は兵杖をよこたへ、狩すなどり殺生偸盗なさずといふ事なし。かかるままに、布薩なんどいふ事は、名をもしらぬ者も有り。此座にもみえ侍べり。
『沙石集』巻六上「栄朝上人之説戒事」
栄朝上人(1165~1247)とは、現在の群馬県内で生まれた人で、かの栄西禅師の弟子である。釈円房とも称した。ここで、無住道曉禅師が論じているのは、本人が長楽寺で学んだこともあるためである。
ここで言われているのは、栄朝上人が末法の世に於ける僧のあり方を歎いている様子が伝わるのである。特に、日本はインドから見て辺地となるため、時を追って仏法が廃れたため、如法の僧がいないという。本来の僧侶は、戒定慧の三学に依拠しつつ、出家の五衆になるべきだという。その五衆は、その立場によって、様々な戒律を守るべきだという。
つまり、出家とは、三衣一鉢を持ち、戒を根拠として、その上で、禅定・智慧を身に付け、顕密や禅教を習うべきだとし、これは、どの地域でも共通だという。ところが、日本では、かつて鑑真和上が如法の受戒作法を伝えてくれたのに、久しからずして廃れてしまったので、ただ髪を剃り、袈裟を着けただけで僧侶だと名乗る者が多かったとしている。また、受戒といっても、ただ各地の戒壇を回っているだけで、一々の戒の守り方なども知らないので、出家してからの年数を虚しく重ねているだけだとしている。しかし、在家信者からの「信施」だけは貪るという。これは、無住に言わせれば、非常に罪作りな行為だという。
そこで、なまじっか仏弟子の名前を得ても、妻子がいたり、武器を持ったりして、殺生や盗みなどをしているという。このような者達は、本来の戒のあり方を確認する「布薩」については、名前を知ることも無いとしているのである。
ただし、引用はしなかったが、栄朝上人は慈悲深いので、正しい仏教のあり方を示しつつも、守れない法師などを見捨てることはしなかったので、上記のような布薩説戒も実施してくれたのである。
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