◎問ふ、抑も安居と云へる辞は世間に言はざる事なるが、仏家にては如何なる義を意味するものにや
○答ふ、安とは身心摂静なるの謂ひにして居とは要期在住の義なり乃ち雑縁を離るるが故に身心摂静なり、奔走せざるが故に一処に居住す、円覚経などには、大円覚を以て我が伽藍と為し、身心安居平等性智なむと云へる高尚なることも見えたり
『盆の由来』第十二問答、16頁
まず、「安居」の言葉について説明されている。我々の場合は、自身の修行の過程で「安居」の何たるかを行法的には理解出来る。ただし、やはり在家の方には難しいといえよう。そこで、高田先生は「安居」という文字を丁寧に説明している。ただし、これには典拠があって、霊芝元照『四分律行持鈔資持記』巻上四「釈安居篇」等からの引用であろう。ただし、原文は「身心摂静」ではなくて、「形心摂静」となっているようだ。意味としては、解説も要しないと思うが、安居とは90日間1箇所に留まるからこそ、身も心も良く収まり寂静だという。
それから、後半の『円覚経』云々はとても有名な一節で、道元禅師も『正法眼蔵』「安居」巻で引用されている。『円覚経』では仏陀の絶対的な悟りを「円覚」とするが、悟りそのものが伽藍となり、その中で修行するからこそ平等性智を得られるとしている。また、道元禅師は「この安居のところは、大円覚なり。しかあればすなはち、鷲峰山・孤独園、おなじく如来の大円覚伽藍なり」(「安居」巻)とも説く。
◎問ふ、自恣と安居の事は已に了解せり、敢て問ふ七月十五日を仏歓喜の日と云ふことは如何
○答ふ、仏の世に出て給ふは、唯人をして善事を修し悪事を止めしめむが為めなり、故に悪事を見ては憂ひ、善事を見ては喜び給ふ、七月十五日は十方の衆僧が、一夏九旬の期限を結び、各々戒定慧の三学を修め、得る所あるの日なれば、仏の本意にかなひて、殊に歓喜し給ふの日なるが故なり、又互に自恣して其過を改むるの日なるが故なり、此十五日は仏門の吉日なりと知るべし
前掲同著・第十三問答、16~17頁
続く問答では、「自恣」と「安居」を理解した問者から、改めて「仏歓喜」の意味を聞かれている。これは、『盂蘭盆経』に「七月十五日に於いて、仏歓喜日、僧自恣日、百味の飲食を以て盂蘭盆中に安んじ、十方の自恣僧に施す」とあることに由来する。つまり、同経では「七月十五日」を「仏歓喜日」としているのだが、その理由を聞いている。
そこで、高田先生はこの意味を仏がこの世界に現れた意味から説き、それは人に対して善事を行わせ、悪事を止めるためだという。よって、仏は悪事を見れば憂い、善事を見れば喜ぶという。つまり、「七月十五日」とは、安居でしっかりと修行した僧侶のあり方が、まさに仏の本意に契い、更に「自恣」を通して自らの罪を反省するからこそ、更に仏は歓喜されるという。
それを端的に「此十五日は仏門の吉日なり」とされた。我々はそのような仏の歓喜する日に衆僧を供養することで、自らの祖先の苦しみを除くというのが『盂蘭盆経』の本意なのである。この辺は、また今後の記事でも採り上げてみたい。
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