具体的には、関連する資料をご覧いただければと思うのだが、ここではその事実を伝え、また、拙僧自身が想うことを申し上げたい。同寺に伝わっているのは『源氏物語』全五十四帖の内、第九帖に当たる「葵」巻の一部(断簡)である。
同巻は、光源氏の正妻である葵の上が、男児・夕霧を出産し、その後亡くなってしまう場面などを記している。現存している道元禅師の直筆写本とされるのは、人によってはこの帖を15段に分けるようだが、その内、第4段に該当する箇所である。
それで、道元禅師がこの書写を行った時期だが、出家する前のことと推定されている。おそらくは生家の村上源氏か、猶子として迎えられた松殿家に所蔵されていた本を写したものか。
なお、道元禅師の生家は村上源氏とされるが、そういえば「光源氏」は桐壺帝の皇子になるが、源氏の性を賜り臣籍降下した人である。そもそも桐壺帝自身が架空の天皇なので何ともいえないが、光源氏は「桐壺源氏」ということになるのだろうか?!まぁ、「桐壺」は、いわゆる天皇として後に付けられた名前では無く、愛した女性の名前から呼ばれた通称なので、ちょっと違うか。
それから、道元禅師には今回採り上げた『源氏物語』や、『新古今和歌集』などを書写したと伝わるのだが、後者などは道元禅師の実父とされる堀川通具公が編者であり、テキストがあったということか。そして、書写の目的だが、出家前だとすれば年齢は13歳までの間であるため、習字或いは和歌の習作のためだったのであろうか。この辺、『新古今和歌集』写本を入手し、各地の有縁の寺院に分施した面山瑞方禅師が以下のように述べている。
熟つら是を視るに、則ち永平祖師少壮の時、筆する所の真蹟なり。難有希有、言うべからず。古を稽するに、元久乙丑祖師甫大歳、其の志学弱冠の頃に至りて、則ち世人、此集新撰を以て東写西繕を競うの時に丁る。且く此の中に久我道光・通具の詠を列し、亦た三井公胤僧正観心の歌を載すること有り。則ち、祖師手づから之を写して慕うなり、宜しきかな。
『面山瑞方禅師逸録』巻12「書永平祖師真蹟尾」
ということで、元久年間は西暦だと1204~6年までなので、道元禅師は5~7歳になるのだが、その頃に書かれたものかと推定されている。目的は、やはり志学だとされるが、これ以上の発見が無ければこれ以上分かることはあるまい。
『新古今和歌集』はともかく、道元禅師が『源氏物語』を書写されたかもしれないという話は、今年という年代で無ければ意味が無い話ではあるので注目してみたが、同作品には和歌が多く入っており、習字・習作だったと理解しておきたい。
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