さて悉多は阿羅邏仙人を調伏し、夫より伽闍山苦行林中に入り、尼連禅河と云川の側に、静座観想して苦行を修し、日に一麻を食し或は一米を食し、或は二日又は七日に一麻米を食す。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』43頁、漢字などは現在通用のものに改める
まずは、以上のことから始まる。なお、この後、苦行に入った悉多太子を心配して、浄飯王が色々と世話を焼こうとする様子が語られているが、それは後述する。それで、上記の典拠は『過去現在因果経』巻3であるため、これまでと同様だといえよう。
ところで、篤胤はまず、釈尊伝を辿りながら、その矛盾点などを論うことを目的にしていると思うのだが、苦行を採り上げた理由はどうも以下の一節を挙げたいからだと思われる。
悉多がいふに、吾は父母に逆ひまた国を捨て遠くこゝに在ることは、至道を求んが為にとての事也。
何が故にかゝる品々を受よふとぞ厳しく云から、車匿が思には是では此品々を受はすまひと悟りて、右の品々をば悉く浄飯王の許へ反し送りて、吾一人は彼の憍陳如らと共に麓に在り、悉多が苦行を見ついだと云事でござる。
これ程に父の厚き志を無にし、かへしやるとはさてさて悉多は心なき者でござる。くはずんばくわいでもよいから受け置き、父の志を慰るが人の子たる者の道でござる。こんなに痩さらぼつて居から、さぞかし心中におひては食たかつたであらふでござる。所を一旦何も入らぬ食ひ物も喰まいと云出したる我慢を弘ての事とみゑる。是がまことに諺に云痩我慢でござる。
同上44頁
先ほど後述すると言ったが、要するに、悉多太子の苦行は、父親である浄飯王の極度の心配を招き、多くの食べ物であるとか、側で一緒に修行する者を派遣したわけだが、その思いに応えることなく、ただ苦行を継続したことが書かれている。しかし、この様子について、篤胤は「これ程に父の厚き志を無にし、かへしやるとはさてさて悉多は心なき者でござる」としているわけだが、おそらくはこの辺を指摘したかったのだろう。
要するに、親への孝を尽くさない様子を問題視したということだろう。ただし、「孝」が国学に於いてどう位置付けられるかは、もう少し検討が必要だと思ったが、今のところその材料が無い。
それから、「痩我慢」についても、篤胤が述べたかったことであろう。修行を目的に食事を取らないため、空腹であろうに、父親が寄越した豪華な食事を無視したことについて、文字通りの「痩我慢」だとしているのである。
次回は、篤胤が釈尊の修行の目的について、別の意味合いも見出しているので、それを探っておきたい。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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