ところで、前回の記事で、「都維那」「典座」「直歳」の三職について採り上げようと思ったが、前2つでかなりの分量になったので、「直歳」だけ分けて論じようと思った。以下の通りである。
一 直歳
或は、直歳を立つ、則ち直に一年、或は直月・直半月・直日、皆悦衆なり。随方之を立つ。都に之を三綱と謂ふ。其の僧綱を雑任するなり。唐初、数葉、僧主を立てず、各寺に此の三官を設くるのみ。
『緇門正儀』6丁裏、訓読は原典を参照しつつ当方
いわゆる「直歳」である。以前から、役職としてかなり厳しいので、1年(歳)交替だから「直歳」と名付けた、と聞いていたのだが、上記の一節は、それを半ば肯定し、半ば否定している。なお、上記一節は『大宋僧史略』巻中「三十五雑任職員」を下敷きに論じていることは明らかだが、その原典で何と言っているのか、一応までに確認したが・・・上記と同じか。つまり、「直歳」とはいうものの、1ヶ月、半月、毎日という期限があり、更には、役職としては「悦衆」だというから、維那と変わらないこととなる。
ただし、これも、少しくこれまで知っていた役職とは異なっている。参考までに、禅宗での定義を見ていこう。
直歳の職、凡そ院中の作務、並びに之の為す所を主どるに係る。
『禅苑清規』巻3「直歳」項
以上の通り、寺院中の作務や、そのなすべきところを掌るというが、実際には寺院伽藍の修築や、警護なども担当するのである。ただし、『禅苑清規』には、「一年(歳)」という話は見えてこない。しかし、『祖庭事苑』を見ていると、以下の一節が確認された。
僧史を案ずるに、直に一年の務めを謂う、故に此の職を立す。今の禅門、定歳の時に止まらざると雖も、名を立てるに亦た古制の法なるなり。
『祖庭事苑』巻8「●雑志」項
本書は11世紀末~12世紀初めに成立しており、先の『禅苑清規』とほぼ同じ時期とされる。それで、こちらではまず『大宋僧史略』を参照して、任期期間に因んだ役職名を挙げつつ、後の禅宗の見解として、既に「一年」という役職の期間が設定されていないとした。しかし、ただ古制に従って直歳の役職を置いていると表明している。ここで「一年」という時期に限りが無いとしているので、ただの役職になったのだろう。
なお、以下の一節もご覧いただきたい。
師、潙山に在りて直歳と為り、作務し帰る。
潙山、問う、「甚麼の処より去来す」。
師云わく、「田中より来たる」。
潙山、云わく、「田中、多少の人ぞ」。
師、鍬を挿みて叉手す。
潙山、云わく、「今日、南山、大いに人の茅を刈ること有り」。
師、鍬を抜いて便ち行く。
『袁州仰山慧寂禅師語録』
こちらは、中国禅宗の潙仰宗の祖師だった仰山慧寂禅師(804~890)の語録から引いた。仰山禅師の生没年から分かる通り、9世紀の人である。つまり、先に挙げた『禅苑清規』『祖庭事苑』などよりも、200年以上前の人である。転ずれば、禅宗では9世紀には既に、後と同じく、作務に関わる役職として「直歳」が置かれていたのである。
以上の内容から理解するに、まず直歳とは、その任期の期間に由来する名称であったことは間違い無いのだろう。しかし、その時には、役職が絞られていなかった。しかし、禅宗では9世紀には作務などを掌る役職となり、期間に依拠する部分は後退したと思われる。雑駁な内容ではあるが、この記事は以上としておきたい。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事