つらつら日暮らし

「神無月」について(2)

先日、【「神無月」について】という記事を書いたが、その続編である。『徒然草』は、鎌倉時代末期に成立したとされる随筆だが、しばらくの間は本書について論じられることも無く、註釈などが作られるようになったのは江戸時代に入ってからとなる。

そこで、本当に多数が存在する『徒然草』の註釈を元に、「神無月」の一件をどう論じているかを見てみたのだが、はかばかしい結果を得ることは出来なかった。それで、明治時代に、それらの註釈をまとめた文献があるので、それを読んだ方が早いことも分かった。

以下には、その1つを紹介したい。

◎此段は、兼好時代かみな月のことにさまざま世説ある事を兼好不審に思はれし故其事を書あらはせしなり
◎(神無月)といふ詞は古哥にもおほくあれば、なき事にては有まじある事ならば吉田の家の兼好のしられぬ事はあるまじきに、かくあるは不審なれども、鬼神の二字を沙汰せるに鬼は陰の魂、十月は極陰の月にて天下に陽なし、八卦を見れば西北の角を乾皆連と号して九月・十月の卦なり、出雲の国も日本の西北にあたるか、かやうの義によつて十月をかみな月と号せる説は一理あれば、出雲の神幸の説をばとがめて、勢州へ諸神あつまり給ふといふ義をとがめてかける段と心得をくべきなり
◎(十月諸社の行幸)寛和元年花山院松尾に、寛弘元年十月一条院北野に、延久三年十月(後)三条院日吉に何れも行幸ありしなり、
◎(不吉の例)花山院は御在位わづかに二年にておりゐさせ給ひて御落飾ありし、後三条院は此行幸のあくる年そべらせ給ひ又のとし、崩御なりしき、かやうの事を不吉の例といふにや、
    北村季吟『(校註)徒然草文段抄』鈴木常松・1892年、263~264頁


今回は、明治中期に刊行された文献から、註記を見ていこうと思う。なお、「神無月」の語源研究という点では、上記の註記は、決して十分とは言えない。むしろ、『徒然草』の著者が、何故このような文章を書いたのか、という理由の検討が中心になっている。

それで、本書では吉田兼好が著者だとしており、神社の関係であるという立場を前提に、「鬼神」という二字に因んで検討しているという。その内、鬼は「陰」であり、十月は「極陰」で「陽=神」が無いという意義だとしている。それから、「八卦」を考えると、「西北」は「九月・十月」であり、出雲(現在の島根県東部)が「日本の西北」に当たるというが、これは京都を中心に見て、ということであるが、少し無理がある。

現代的な地図で見てみると、「西北」ではなく「西北西」というべきであろうが、当時の地図や地理観念では、「西北」ということになるのだろう。そして、「八卦」説に基づいて、日本の西北になる出雲に、より力がある神が集まることを指しているのだろうが、そもそも「八卦」説は中国の易学由来の説なので、日本のことを論じるのには無理があるようにも思う。

上記の註記では「一理」あるとしているが、それも納得は出来ない。

それから、前回の記事では明らかにしなかったけれども、「十月諸社の行幸」について論じている。花山天皇・一条天皇・後三条天皇などの事例があるようだが、その内、花山天皇・後三条天皇について、不吉の例があったとしている。ただし、これが本当に全てかどうかは検証できていない。

それに、吉・不吉は、解釈次第で何とでもなってしまうので、典拠として挙げるのは難しい。

そうなると、『徒然草』は、「神無月」について、俗説に対し大きな疑問を持たせることには成功していても、真義を明かすまでには至らないことが理解出来よう。

ということで、この話は別の方向からの検討を進めていきたい。

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