遺教経会 九日より十五日迄、○瑞応山大報恩寺の釈迦訓読会とも云、堂は、洛の上立売朱雀の西に有、元天台宗なり、近世真言宗となる、方丈を養命坊と号す、千本の釈迦堂是なり、
〔紀事〕この寺に藤原の秀衡建るところの堂、并に平の教経幼年の砌、手習せしと云寮有、一説に秀衡の堂、教経の室、いにしへよりある処にして多く廃頽す、近世これを再興すと云、又一説に猫間の中納言光隆卿の家士、岸高拾、千本の地に大報恩寺を建て、如琳上人を請すと。しかれば秀衡の堂、教経の寮、みな誤か、毎年此節雪ふり風烈す、故に児童の諺に、雪経に参らんよりは、竈の前に参らんにしかずといへり云々、遺教と雪と和語相近し、故にしか云、
此寺に普賢像の桜あり、俗に普賢堂の桜と云、閻魔堂の前に有、
凡千本釈迦堂念仏と云は、文永年中如輪上人を始とすといへども、実は恵信僧都の高弟定覚上人はじむと云、是釈迦堂念仏の祖なり、音乱名号大念仏と云、一旦中絶して二百五十年のこと徒然草にもみえたり、此法会九日より十五日に至る、
東山智積院の僧徒これをつとむ、
訓読会とは、遺教を訓読するなり、此教は釈迦涅槃に入給ふ前に、仏弟子の為に遺戒し給ふ経なり、故に遺教経と云、
『俳諧歳時記栞草』積善館・明治25年、93~94頁
要するに、現在の京都市上京区に所在する千本釈迦堂(大報恩寺)で行われる法要のことだという。上記の一節にも見られるが、『徒然草』にも「千本の釈迦念仏は文永のころ、如輪上人これを始められけり」(第228段)とあるが、この関係性が問われる。
さて、問題は「遺教経会」であるが、「釈迦訓読会」ともいい、釈尊の『遺教経』を訓読で読むことを指すという。わざわざ「訓読」といっているのだから、訓点を付けたか、始めから訓読したテキストを用いて読むのだろう。残念ながら、読んでいるテキストまでは分からなかったが、何か報告するような研究や記事がありそうな感じではある。
なお、上記では2月9~15日までの法会として書かれているが、現代では3月22日に行うようである。
この記事では、法要実施に至った動機などを見ていきたいと思うのだが、上記の文章からは良く分からない。ただし、推測することは可能である。まず、『遺教経』という経典は、以上の紀事にもあるように、釈尊の入般涅槃に従って説かれたものという体裁をしている。それから、内容も余計なことを説かずに、仏教思想を体系立てたものとなっており、中には「八大人覚」も説かれる。
それから、何と言っても、数ある涅槃経の中でも、『遺教経』は読誦に使えるという利点がある。もしかして、それを考慮して、あのように編集されたのか?等と思ってしまうほどである。だいぶ古典的な研究ではあるが、既に境野黄洋氏が1928年に「「仏遺教経」と「仏所行讃」について」という論文を発表し、『遺教経』と『仏所行讃』巻5「大般涅槃品第二十六」との関係性が指摘されている。『仏所行讃』は、文字通り賛で詩の形をしているので、読誦可能であるが、しかし、釈尊伝全体を表現しているので、長いことは長い。
それと比べても、『遺教経』の手堅さが際立つ。更には、しっかりと釈尊入滅までの描き方は、仏教徒としての涙を誘うようなところもある。偉そうな言い方だと自覚して申し上げるが、経典としての出来が良いのである。よって、それを読むことで、釈尊の涅槃を想い、追慕の念を起こさせるような法会は、価値があるだろうと思ったのである。
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