つらつら日暮らし

『教誡律儀』雑考

最近、南山道宣律師『教誡新学比丘行護律儀(通称『教誡律儀』)』の、日本の近世・近代に編まれた註釈書・提唱本などをつらつら見ていたのだが、その中に以下の一節を見出した。

舒明天皇の即位六年に当るなり、南山大師四十歳の時なり、
乃ち三井の智証大師の伝来したまふ護律儀と云もの是なり
    大宝守脱『教誡律儀抄』明治15年


さて、これは何を言っているかというと、日本では舒明天皇の即位6年目の時に『教誡律儀』が執筆されたといっており、その後、天台宗寺門派(三井寺)の智証大師円珍によって、同書が日本に伝来されたといっているのである。

まず、この表記について確認したい。

舒明天皇は593?~641年とされており、即位6年目とは634年に該当する。それで、現在、一般的に参照可能な道宣律師(596~667年)の『教誡律儀』は、『大正蔵』巻45所収本だと思う(日本で安政5年[1858]に刊行された一本が底本)のだが、それには道宣律師の編集時期などは書いていない。だが、中国宋代の霊芝元照律師の『芝苑遺編』巻下「南山律師撰集録」では本書を「貞観八年製、永徽元年重修」としている。そして、その貞観8年こそ634年となる(貞観は、中国だと7世紀前半唐代初期の元号だが、日本でも同じ字句を用いていて、9世紀中頃平安時代前期のものである)。よって、先の守脱師は、この元照の見解を、日本の元号に変換して表記したのである。

それから、本書は三井寺の智証大師円珍(814~891年)が日本に持って来たという。これは、『智証大師全集』巻下に収録されている『智証大師請来目録』等の諸目録を参照すればすぐに理解出来よう・・・あれ?無かった(;゜ロ゜)

いや、無いよ。ついでに、智証大師には有名な『六祖智証大師授菩薩戒儀裏書』(前掲同書巻中に収録)もあるから、それも見てみたが、『南山鈔』という文献からの引用はあったけど、これは『四分律刪繁補闕行事鈔』からの引用であることを、智証大師自身が書いているので、これは解決。

すぐに解明出来ると思って、高をくくって調べ始めたけど、沼にはまることってあるんだな。もう意味不明。

これだけだと文章量が足りないので、もう少し調べて足してみよう。

孝徳天皇白雉元年に当るなり、南山大師五十六歳の時なり、俊芿律師の伝来にして、今の現行の本、是なり。
    大宝守脱『教誡律儀抄』


あぁ、なるほど。そういうことか。ちょっと分かった。守脱師がいっていることとは、『教誡律儀』は一度編まれた後、重修されており、日本の場合は元々の『護律儀』という文献は智証大師が持って来て、重修本となる『教誡律儀』は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した俊芿律師(1166~1227年)が持って来たといっているのである。

後者の話は結構有名なので、検証も不要だが、この感じだと、守脱師は智証大師請来本、直接は確認出来ていないのかと思われる。何故ならば、現行本への言及は当然あるわけだが、古い方には無いからである。ただ、1つ、心残りは智証大師に因む『護律儀』への伝承なりが分かれば良かったのだが、当方の拙い調査力では難しかった。後の課題としたい。

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