○廿七、一日示して曰く、東へも西へも行かんと思ひ、一足づゝ運べば、必ず行き着く物也。然るに修し行ずる処に於ては、尺取虫の様にもいじる者無し。皆娑婆に心を取られ居る許り也。
達磨大師は外諸縁を息め、内心喘ぐ事無く、心牆壁の如くにして以て道に入るべしと示し給へ共、今時は世縁を離れたる人さへ無しと也。
『驢鞍橋』上-27
これは、どこまでも自己の問題として修行を捉えるべきだという正三の指摘である。面白いもので、何故か真摯に修行を進められている方の中に、それを他人から賞賛されたいのか、何か分からないが、やたらと他人に修行の状況などを問う者がいる。それは、特に修行が段階的、階級的である場合が多いようだが、正直無駄である。そうではなくて、ただ一歩一歩を自分で進めることが重要であり、それはどこまでも自己の問題でなくてはならない。或いは師匠と弟子の問題であり、余人に公表するようなものでもない。
とにかく、尺取り虫のように、一歩一歩歩むように、進めていくことだけが重要であり、今の自分の位置を気にしたり、それへの世俗的な賞賛など期待してはならない。或いは、期待せずに公開しているという人がいるかもしれないが、それが更に嫌みったらしい。そもそも、修行に階級があるということ自体が、問題である。
拙僧に言わせれば、例えば何かを捨てれば、何かの階級が得られるという時、そこには捨てていながら得ていくという矛盾があるし、或いは捨てると思いつつ、実は得ていくことから、結局得るための修行になっている。
むしろ、何かの階級に把われることがなく、ただ行っているかどうかだけが問題になるべきである。そして、長年修行していれば、自ずと何かが得られていきますが、それは実体的ではない。ただ、一歩ずつ進むのであり、それがいつの間にか目的にも達するかもしれないし、達しないかもしれないし、達しようと歩いている間に、目的が変わってしまうこともあるだろう。
しかし、それらの変化は、歩むことから生み出されている。したがって、このひたすらに黙々と歩むこと、それこそが肝心であることはもうご理解いただけたかと思う。進むこともあるだろうし、退くこともあるだろう。
ところで、正三は達磨大師の言葉を末尾で紹介されているが、これは『少室六門』「第三門二種入」に収められる偈文である。
外に諸縁を息め、内心喘ぐこと無し、
心は牆壁の如く、以て道に入るべし。
この通りである。これこそ、まさに坐禅の極意だよな。「諸縁」を息めるのである。以前も、或る参禅会で、坐禅中に仕事のことが頭から離れないという相談を受けたことがあるのだが、この「諸縁」を如何にして手放すかが問題である。結局、坐禅とは「手放し」の繰り返しなのである。
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