其つぎお調達といふ、是がいわゆる提婆達多でござる。これがとかく釈迦のすることが気に入らぬと云て、生がい争つた男でござる。尤もさやうに始終の宜しかるまじき訳は、釈迦が彼瞿夷と云女を迎へる時に、調達も夫に心をかけていたなれども釈迦にとられたるから、始終夫が根と成て中わるかつたと見へるでござる。とふとふ争ひが募り是は釈迦の神通で焼殺されたでござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』72頁
さて、この「瞿夷」という女性だが、釈尊の妻の一人だったとされる。
瞿夷は、是れ太子の第一夫人、其の父の名、水光長者なり。太子の第二夫人、羅云を生みたるは、耶惟檀と名づく、其の父、移施長者と名づく。第三夫人、鹿野と名づく、其の父、釈長者と名づく。
『十二遊経』
なお、釈尊の子供がラーフラで、その母がヤショーダラー妃だということは知られていると思うが、ラーフラは「羅云」、ヤショーダラーが「耶惟檀」である。そうなると、篤胤が取り沙汰している「瞿夷」については誰なのか?ということだが、以下の一節が参照されるべきだろうか。
又復た剃髪とは、羅睺羅童子の如し。仏、爾時、尼拘陀樹下より迦維羅衛城に来向して乞食す。時に瞿夷、羅睺羅と共に高楼上に在りて、仏の来たりて入城するを見る。瞿夷、仏を指して羅●羅に語りて言わく、「此れは是れ汝が父なり」。羅睺羅、即り楼を下りて、仏を詣でて礼を作す。仏、手づから羅睺羅の頭を摩し已りて、極楽と為す。
『毘尼母経』巻3
・・・???
こちらだと、瞿夷は羅睺羅尊者の母ということになっているらしい。実際、『仏祖統記』巻1ではその辺を少し取り沙汰しているけれども、ヤショーダラー妃が母だと主張している。よって、上記については、余り参照出来ないことになる。
太子、年十七に至り、王為に妃を納む。国中を簡閲して、名女数千なるも、意うべき者無し。最後の一女、名を瞿夷と曰う。端正好潔にして、天下第一なり。賢才人に過ぎ、礼儀備挙す、是れ則ち宿命の売華女なり。
『太子瑞応本起経』巻上
この人は、ヤショーダラー妃ではなく、「瞿夷」になる。注目すべきは、「宿命の売華女」とあることで、これに因んでは『修行本起経』巻上「現変品第一」には、「錠光仏」の元で釈尊が花を買った相手の女性が「裘夷」という名前で記載されている。ただ、釈尊の第一王妃なのか、羅睺羅尊者の母かどうか、といった問題は典拠によってまちまちであるため、良く分からないといえる。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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