そこで、今日は以前から注目していた室町期の辞典となる『塵添壒嚢鈔』巻1「【二】七草の事 附・七種の粥の事」を見ていきたい。
【二】七草の事 附・七種の粥の事
△正月七日の七草のあつものと云は、七種何々ぞ。
七種と云は、異説ある歟。一准せず。或歌には、
〇せりなづな五行たびらく仏の座あしなみヽなし是れや七種
〇芹五行なづなはこべら仏の座すヽなみヽなし是れや七くさ
又或日記には薺繁縷五行すヽしろ仏の座田びらこ是れ等也と云云。
但し正月七日七草を献ずと云事、更になし。年中行事には、七日白馬の節会及び叙位の事
兵部省の御弓の奏事
と許り記して、七草と云事なし、十五日にこそ、七草の御粥を献ずる事註し侍し。
又、資隆卿の八條の院へ書進する簾中鈔にも此定也。彼の鈔名物也。豈に浮ける事あらんや。又、禁中の事、年中行事にしかんや。既に廃務まで註せり。争でか当時の事漏る哉。旁不審なる事也。去り乍ら諸人皆七日と思へり。何なる事に歟。人、尋ぬべき也。
次に、其の故を云ば、大宗の家訓と云文に云く、七種の若菜を採り調て、氏神并に三宝、次に父母に献じて後に、是れを食すれば、春の気病、夏の疫病、秋の痢病、冬の黄病にも病人ならず、
三魂七魄と云神あり、
天には七曜と現じ、地には七草と成る也。是れを取て服すれば、我が魂魄の気力を増し、命を延る也。大宗・文王の時より始る事也と云云。
又、荊楚歳時記に云く、俗、七種の菜を以て羹に作る。是を食べる人、万病無き也と云云。
『塵添壒嚢鈔』巻1、カナをかなにし漢字を現在通用のものとする
さて、色々と議論が出て来たように思う。まずは、「七草」の内容について、複数の組み合わせがあり、一定ではないという。そして、七草を覚えるためなのか、和歌にした事例もあるようだが、その内容に複数の組み合わせが確認されるのである。これでは、良く分からない。また、本書でも、何か1つに決めようという意識は無い。
それから、この「正月七日」の行事について本書では検討しているが、それも、結論ははっきりしない。ただし、「年中行事」として、正月七日は「白馬の節会」と「叙位」であるという。まず、前者の「白馬の節会」だが、読み方は「あおうまのせちえ」であり、元々は「青馬」と表記されていたらしい。
奈良時代の辺りから、日本でも宮中の年中行事に組み込まれたが、元々は中国の行事であったらしく、青馬(白か葦毛の馬)をこの日に見ると、その年の邪気を払えるという伝承があったらしい。よって、その時々の天皇が、正月七日に紫宸殿か豊楽殿で、左右馬寮から引き出された21頭の青馬を見るという行事だったとのこと。そして、当初の「青馬」を「白馬」に書き換えたのは、村上天皇だったという話も伝わっている。
後者の「叙位」だが、「白馬の節会」の日に、五位以上の位階を進授する行事が行われていたので、それを指している。更に、「兵部省の御弓の奏事」については、平安時代から禁中で行われるようになったようだが、「白馬の節会」で、射礼のために兵部省から献上する天皇の弓を、内弁がとりついで奏上することを指す。
つまり、本書では、上記のような宮中の行事がある一方で、「七草」については無く、むしろ、正月十五日だと指摘しているのである。ただし、江戸時代の行事を見ると、やはり正月は七日が「七草」であるが、「羹(あつもの)」とあるばかりで、「七草粥」とはしていない。むしろ、十五日には「小豆粥」を指摘するのと、平安時代の『枕草子』などでも、この日の「かゆ」の行事を指摘するので、どうも、「七草の羹」と「小豆粥」などが習合して、「七草粥」となり、数字のキリも良いので、「人日の節句」に統合された様子が伝わってくるようである。
また、「大宗の家訓」についてだが、唐の太宗を指していると思われる。ただし、詳細は現段階では不明。
末尾の『荊楚歳時記』とは、中国南方になる長江中流域の荊楚地方の年中行事を記した文献で、梁(南朝)の宗懍が著し、後に隋の杜公瞻が注釈した。それで、今回、これを見ていて、いわゆる「人日」の由来となっている、「七日は人」という伝承は、『荊楚歳時記』に由来していることが分かった。なお、七草の羹を作る話は『荊楚歳時記』に確認したが、「万病が無い」という話は、当方の拙い調べでは確認出来なかった。
ということで、まだまだ穴だらけで、来年の探究が楽しみではあるが、少しずつでも分かっては来ている「人日の節句」、今年はここまで。
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