ということで、「海の日」なのだが、この日は「海」に因んだ仏教語を学ぶようにしている。今日、見ていくのは「清浄大海衆」という言葉である。これなのだが、例えば以下のような用例がある。
雲堂の清浄大海衆なり。
『虎穴録』巻上
これは、臨済宗の大徳寺や妙心寺などで住持を務めた悟渓宗頓禅師(1416~1500)の語録に出てくる表現である。雲堂とは僧堂(坐禅堂)のことなので、そこに坐する大衆のことを「清浄大海衆」と表現したことが理解出来よう。
ところが、実はこの語は本来、禅宗系で用いる表現ではないようなのである。そう書くと、いや、以下の一節があるだろう、という指摘が来るかもしれない。
南無阿弥陀仏一百声、観世音菩薩・大勢至菩薩・清浄大海衆菩薩、各おの十声す。
『勅修百丈清規』巻6「病僧念誦」項
これは、中国元代に編集された禅宗の清規でも代表的なものなので、そこに「清浄大海衆」と出ているのだから、禅宗の表現では?という話になりそうな気もするのだが、既にこの一節からも分かるように、「南無阿弥陀仏」から、観音・勢至二大菩薩と続くので、これは浄土教的表現だということになり、その中に「清浄大海衆」と出ているのだから、これはもしかすると、阿弥陀仏が来迎する際に引き連れてくる諸大衆か?という話になってしまう。
そんなことを思っていたら、ちょうどそれを指摘する文献があった。
解者曰わく、清浄大海衆とは、総じて西方浄土の諸菩薩を挙ぐるなり。
無著道忠禅師『禅林象器箋』巻17「四聖号」項
この「四聖号」というのが、まさしく先ほど挙げた「阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩・清浄大海衆」のことを指しており、この内、確かに「清浄大海衆」のみ、今一つ不明なので、無著禅師は「総じて西方浄土の諸菩薩を挙ぐるなり」という見解を示しているのである。つまりは、この「清浄大海衆」が浄土教の信仰に由来することを明かしたのである。
その点から探っていくと、この用語は、ほとんど浄土教系の文献ばかりで見られることが分かる。
南無西方極楽世界諸菩薩清浄大海衆。
善導和尚『往生礼讃解』
これは、善導和尚による西方浄土の聖衆に対して唱えられた「礼讃偈」である。ここにも、「清浄大海衆」が極楽浄土の住人であることが明示されている。そうなると、禅宗系でこの用語が用いられた理由も少し考えてみたいと思う。まず、『勅修百丈清規』では、病僧念誦であるので、病を得た大衆が、迷うこと無く西方極楽浄土に往生することを願っていたと理解出来よう。日本では、浄土教系と禅宗系は、異なる宗派だと理解されているが、中国ではむしろ、元代は「浄土禅」の傾向があったので、そう理解して良い。
問題は、『虎穴録』で、この場合は先に挙げたような意味で理解するのが良いと思う。そこで、敢えて「大海衆」に注目してみると、この「大海」とは、様々な川が集まって出来たものだと理解され、その意味で「大海衆」とは「和合衆」であると理解出来る。よって、悟渓禅師は、「清浄なる和合衆」の意味で「清浄大海衆」と用い、別に、西方浄土の諸菩薩衆の意味では使っていないのではないか、等と思ったのだが、この辺は用例が少なすぎて、結論が出ないのであった。
今日は海の日、もし海にレジャーに行くのであれば、是非海難事故にはご注意いただきたいものである。
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