もちろん、史実の一休禅師がかなりかっ飛んだ人物であったことは疑いないが、流石に説話のような人物像を実際と捉えることも出来ない。そんなことをいいつつ、今日は説話の中から一つ見ておきたい。
○片足の出入
或男一休の許へ雀を一羽握り来りて云く此雀は生なりや死なりやと問ふ、一休若し生と云へば、彼れ必らず握り殺さん、又死と云へば之を放さんと思ひければ直に無と答ふるつもりが、一言の挨拶もなく立去りけり、
其後一休彼の家へ至り閾をまたぎて主人を呼び、我此敷居を出るか入るかと尋ね玉へば主人只だ打笑ひて一言の答えもせざりしとぞ。
中野了随編『一休頓智奇談―難問即答』鶴鳴堂・1887年、30~31頁
さて、内容としては、大して面白くもないかもしれないが、何故かこの書籍では、一休禅師がやり込められることも多いものを敢えて集めている印象もあるので、採り上げてみた。
この問答自体は、一休禅師の元に、或る男が、雀を握りしめてやってきて、「自分の手の中にいる雀は生きているか?死んでいるか?」と聞くつもりであったという。問題はその後で、もし、一休禅師が「生きている」と答えれば握り殺し、「死んでいる」と答えれば、放して「何も無い」と言うつもりであったという。
ところが、一休禅師はこの男の質問にも答えること無く、フラッと立ち去ってしまったという。結局、男は、自分自身の分別心を見透かされたようになってしまい、問答以前のところに追い遣られてしまったことになる。
しかし、その後、反対に一休禅師がこの男のところにやってきて、敷居をまたごうとしている体で、「敷居を出るのか?入るのか?」と尋ねたという。一休禅師は、おそらく「出る」と答えられれば入り、「入る」と答えられれば出るつもりだったのだろう。ところが、尋ねた相手はただ爆笑してしまい、何も答えなかったという。
つまり、一休禅師は、体よく仕返しされてしまったのだが、無分別という真実の智慧を表現するのであれば、実は、立ち去るよりも爆笑の方が積極的である。爆笑の積極性は、あらゆる分別を破りつつ、分別に拘泥しようとする営みの全てを破壊する。その意味では、雀の生死で一休禅師に、引っかけの問答を仕掛けようとした男は、知らない内に成長してしまったようである。
一方で一休禅師は、もしかして引っかけられようとしていたこと、それ自体に気付いていなかったのかもしれない。男の爆笑の原因は、もしかしたらそれだったのかもしれない。引っかける問答としては、雀の方が秀逸だからである。だが、ここでうまうまと引っかけるつもりで、笑われた一休禅師は、現代の漫才で言えば、ボケであるが、そう考えると、ボケというのも実は、分別を破する。
それを評価すれば、一段高度だったとみることも可能だろうか?今日は、せっかくの「とんちの日」なので、分別せずに頭をフル回転でいたいものだ。
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