ところで、色々と調べてみたのだが、この沢水和尚という人は、元々上杉謙信(1530~1578)に仕える武士だったようだが、その後出家して、臨済宗の抜隊得勝禅師(1327~1387)の法語を読んで宗旨を得たという。『沢水法語毎聞記』の「十八 抜隊法語の初行を示す事」で同法語を採り上げており、自身の提唱にも活用していた様子が分かる。それで、その後、臨済宗の亀庵珠光という人と出会い、印可を受けたとされる。なお、謙信に仕えていたという沢水和尚だが、遷化年が1740年(元文5年、先の本書跋文の年代に一致)となるという。そうなると、年齢が160歳を超えている可能性があるというのだが、これはどうなのだろうか?かの、趙州従諗禅師(120歳)や脇尊者(140歳)を超えている(;゜ロ゜)
さて、本題に入るが、まずは法語の原文を見ておきたい。
一士来参、問て云く、和尚の慈示をうけてより信心怠惰無しといへども、此頃思ふに、五戒なりとも保持せずんば、畢竟工夫も無益たらんか。若、又、五戒をたもつときんば、人世の交会にさしつかへもあらんか。此義いかんいたすべきや。
師の云く、此工夫修行は、仏道の本法、成仏のちか路にして、全くせばきことにあらず。老僧平日示す如く、聞く主何物ぞと、間断なく路を行く時も工夫し、家にある時もはたらく時も、寐てもさめても、深く工夫をなすべし。誦むこと書こと、算用の時は工夫なし難し。右の用事終らん時は直に又本の如く工夫をなすべし。日々かくご如くなる時は、五戒・十戒は物の数にあらず。平日定共戒にして、万法戒をたもちに当る也。
戒と云は、是れ心戒なり。大唐径山寺の額に書して云く、百千仏を建立せんより、一句自然を悟るべし。無量の戒行を保たんより、心の一戒を保つべしと也。若、又、老僧示す如くに、工夫をなさずして万法戒をたもつといはゞ、此ことはりあること無し。
「二十二 戒行を示す事」、『沢水和尚毎聞記』42丁表~裏、カナをかなにするなど見易く改める
まず、この問答は、問者のことを「一士」とするから、或る侍が沢水和尚に尋ねたものであろう。つまり、在家信者の立場から、「戒行の要・不要」について尋ねたものといえる。この侍は、沢水和尚から指導を受けて、信心に怠惰が無いといっているから、熱心な檀徒だったのであろう。ただし、工夫(坐禅を含む修行)を進める時に、五戒を守った方が、より効果があるように思う半面、そうなると、世間に於ける交流などに不都合なことがあるかもしれないから、良い方策を沢水和尚に尋ねたのである。
なお、五戒というのは、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」とあるが、世間に於ける交流となると、「不飲酒」などが想定されていると思われる。
そして、この問いに対して、沢水和尚は、次のように答えた。そもそも、仏祖の大道を学ぶという工夫修行は、狭い路では無く、常日頃から工夫を重ねていくべきであるという。ただし、経本を読んだり、何かを書いたり、算数(ソロバン)をする場合には、工夫に集中できないこともあるが、それらのことが終わればまた、工夫を続ければ良いという。なお、沢水和尚のいう「工夫」については、「聞く主何物ぞと、間断なく」と見える通りで、自心を悟ることが肝心であったようだ。この自心を禅門では「主人公」ともいうが、そこから離れない様子を指している。
また、自心の工夫が出来ているということは、五戒・十戒などは物の数ではなく、万法戒を保つということとなるので、質問者のような危惧は無用なものだということになるだろう。そして、具体的な戒行ではなく、心地戒の重視という辺りが、何とも禅僧然とした回答であると感じ入った次第である。
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