○迷える人はみな仏教へいく
〈中略〉
岡田 あと一年か二年したら、迷う人はみんな仏教にいっちゃうんじゃないかって気がします。
内田 わかるわ。
岡田 宗教に関する信憑って、信じるプロセスのどっかで叩かれる可能性が一番少ないということなんだと思います。
内田 うん、よくわかる。神秘的な世界で、個人的な日々の生活と達成目標の間の相関が見えないっていうのがむしろ受けるんだろうね。仏教の修行なんか、何が達成目標かわからないからね。親が寺をもってるから跡継いでいって、幼稚園と駐車場を経営しようとしているのもいるし、千日回峰行をしたいっていうのもいる。人によってどこを狙ってるのかわからない。個人的な努力と報酬の相関が他人には見えないところに惹かれるのって、わかる。それだと欲望のしっぽをつかまれないからね。
岡田 仏教ってブランドもあるし。
内田樹・岡田斗司夫FREEex『評価と贈与の経済学』徳間文庫カレッジ・39~40頁
この文章のコンテキストは、近頃の若者(特に男子)は、誰かに利用されるのを嫌って、自分の欲望をさらけ出すのを拒否しており、その結果「草食化」が起きているという分析に続く一節である。で、その欲望云々という話から、「迷える人はみな仏教へいく」という流れになったのだろう。
それで、欲望の行き先として、仏教が良いのではないか?という指摘が、先の一節である。
まぁ、岡田氏が指摘する、信じるプロセスのどっかで叩かれる可能性については、実際のところ宗教といったって、個人でひっそりと信じている分は良いかもしれないが、人間関係が入ってくると、非常に混沌としてくるので、理想論で片が付くとは思えない。それに、信じるプロセスのどこかでは叩かれないかもしれないが、信じている、そのことそのもので叩かれる可能性があると思う。
また、内田氏が指摘するのは面白い。仏教に関する様々な様相を知っていると、こういう発想になるのだと思う。「仏教の修行なんか、何が達成目標かわからない」というのは、「安心論」について考えたことが無い人特有の発想で、現象面だけ言っている嫌いはあるが、まぁ、仏教の現象として捉えるのなら、これでも良いだろう。なお、「安心論」という観点でいえば、仏教の修行の達成目標は、仏陀になる、またはその仏陀の境涯を我が物とする、これに尽きる。だが、ここからは内田氏の言う通りで、その獲得目標と、修行というプロセスの相関関係に無数のバリエーションがあるので、一見すると、どのような関係になっているのか分かりにくいのだ。
でも、その分からないところが、個人的に打ち込むところが出来るという形で欲望の発散が可能となり、一方でその行き先が分かりにくいところから、他者から利用されることが少ないといえる。拙僧つらつら鑑みるに、この辺は、『日本往生極楽記』『日本法華験記』などの仏教説話系に、類似点を見出すことが可能だと思う。同系統の説話には、多くの話が記載されているのだが、その中には、【親友がもたらしてくれた往生(私的往生極楽記22)】に於ける頼光上人のように、何らかの努力がなされているのに、外見的には理解不能だという事態が含まれている。
他にも、鎌倉時代前後の「遁世者」の様子にも通じるものがある。或る種のディレッタントであり、他者からの理解は得られないが、しかし、仏陀という偉大な存在には認められ、そして大きな意味での目標も達成される可能性があるという意味で、この一件は理解がされる。
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