・玄関開けたらでましたよ…勧誘員。どうやって追い返そうか悩んでいると「誰か来た?」と父登場…袈裟姿で。勧誘員は一瞬動揺したが、すぐさま営業トーク。いかに○○教が素晴らしいかを話し出す!(やすらぎ速報)
ぶっちゃけ信じるのは人の自由だけど、
押し付けるものではないよな宗教って
そもそも宗教は絶対的に正しいなんてないよ
自分が正しくならなければ宗教だって正しくならねえ
正しいと言われてる人たちは宗教関係なく正しくあろうとした人たち
誰が見ても正しいのならその人の人間性が正しかったんだ
で、メインの記事については、「出家」云々は盛り込みすぎかな?とは思うけれども、自分の正しさを素朴に疑わない「アマチュアの勧誘者」が、「プロの宗教家」に論破されるっていうのは、ある話だと思う。こういっては何だけれども、拙僧もこういう類の論戦では、基本的に負けたことがない。そりゃそうだ。拙僧が自身の信仰に満たされているのは、ただ単純に拙僧自身にとっての事実であり、しかも、拙僧の場合はそれを、「他者に理解してもらおうと思っていない」ためである。だから、絶対に他者の意見に左右されない。そのため、「勧誘」しようと思う人の意図が達成されることはない。結果として、拙僧を勧誘したい側は、常に負けることになる。
勧誘における必勝法は、勧誘しようという意志を発さないことに尽きる。
それが、押し付けない宗教ということになる。
それに、本当に正しい宗教であれば、勧誘なんかしなくても勝手に広がるものだ。むしろ、勧誘しているという事実だけで、その宗教が正しくないことを自ら表明していると考えてしまって良い。本当に正しい宗教とは、自らの正しさを表明しようとしないことに尽きる。
例えば、キリスト教的な文脈であれば、勧誘とは「伝道」と呼ばれることになるだろう。最近、必要があって、加藤隆氏『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書・2002年)を読んでいた。そこでも、「伝道」問題が取り沙汰されていた。
そもそも、ユダヤ教は民族宗教であり、伝道は原則的にあり得ないという。そして、キリスト教も、イエスが理想とした「神の支配」の原則からすれば、その対象は全人類になるので、伝道はあり得ないという。何故ならば、伝道には必ず可/不可があり、不可となれば伝道されなかった人を「分け隔てする」ことになるためである。これは、普遍宗教にはあり得ない状況である。
まぁ、仏教のように、インド古来の輪廻説を受け入れて、一時は伝道を受け入れなくても、その内に仏縁が熟すと発想するならまだしも、輪廻説はキリスト教にはないわけで、この辺は「伝道」すること自体の本質的問題を問わざるを得ないことになる。そして、これは現世中心主義の現代日本にも無縁な問題とはなくなってくる。この一生しかないのであれば、その人がこの一生で解脱するしかないし、それが出来ないまま死んでいくのであれば、後はただの虚無が待つだけだ。
とはいえ、虚無を願う人もいるのだろうから、後はまさしく「自己責任」か。拙僧が心配することではない。
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