つらつら日暮らし

悉多太子の妻子の数(拝啓 平田篤胤先生12)

前回の記事は、「悉多太子の修学伝承への批判」と題して、いわゆる釈尊がまだ太子だった頃の修学について、篤胤の見解を探ってみたのだが、今回は「悉多太子の妻の数」と題して、釈尊がまだ在家の太子だった頃の婚姻関係について考えてみたい。ところで、篤胤自身が、仏典をどう評していたのか、その簡単なところを見ておきたい(なお、後に詳細な批判が見えるので、それはまた後日の記事で採り上げたい)。

すべて経文どもは此次の会に委くいひませうが、尽く釈迦が死で、はるか後の世に、うそはつき次第と記したるもの故、実の事はないが、其中に実に有たること実がまゝ交りある。それはよく前後の考へわたして味はへると動かぬものでござる。其動かぬ実事を撰び取て、それを規矩として、よくさぐり考へると、彼偽どもがよくしれるでござる。すべて仏経を読む法は一つ二つ、その実事を以て偽説を考へしり、また其偽説を以て実事を知るといふ法を、心に立てよむが宜しひでござる。さうないと惑はさるゝことでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』24~25頁、漢字を現在通用のものに改める(以下、同じ)


それで、この具体的な内容については、その後日の記事に申し上げたいのだが、上記の通り主張した篤胤がまず、この方法を用いて論じたのが、釈尊がまだ悉多太子だった頃の妻子の数についてである。いや、当方などは普通に、ヤショーダラー妃と、一子ラーフラという理解をしていたのだが、篤胤はそうではないとしている。

父の浄飯は〈中略〉方々その出家せん事を恐れて、悉多は此ときもはや十七歳にも成つたること故、妻を持たし、その心を止させんと構へ、都合三人を呼びさづけ、また、選諸妓女、聡明智慧、顏容端正、善於歌舞、能惑人者、種種荘飾、光麗悦目ともあるでござる。
    前掲同著25頁


ここは、17歳になった悉多太子に対し、父親である浄飯王が3人の女性を見合いさせたことと、更に、周囲にいた妓女にも美しい女性が多かったというようなことを述べている。なお、この妓女云々の一節は、『過去現在因果経』巻2に見えるので、おそらくはその引用であろう。以前にも申し上げた通り、篤胤は同文献を引用していると思われるためである。

さて悉多が妻三人のうち、第一を瞿夷と云て、水光長者と云者の女、第二には耶輸と申し、移施長者と云ふ者の女でござる、第三には鹿野と申、釈長者といふ者の女でござる。また子も三人あつたでござる。第一を善星といふ、是は鹿野といふ女の生んだ子でござる。第二を優婆摩那といふ、瞿夷と云ふが生んだ子でござる。第三を羅睺羅と云、これは耶輸と云ふが生んだ子でござる。かの五百羅漢のその一人でござる。なんと妻を三人持ち子も三人生ぜりや、随分沢山の事で、子福者と云てもよき程の事でござる。但し是は仏本行経、五夢経、十二遊経など云類ひのたしかなる仏経に記し有て争れぬ事でござる。
    前掲同著25~26頁


色々と調べてみたのだが、確かに『十二遊経』に、悉多太子に3人の妻がいたことを示すが、しかし、ここで篤胤が引いたのは、明らかに富永仲基『出定後語』巻下「室娶 第十五」からである。何故ならば、『法苑珠林』巻9や『釈迦譜』巻1、或いは吉蔵『法華義疏』巻1などでこのことを議論し、更に総括的には宋代の『仏祖統紀』巻2などにも注目されるが、ここで篤胤が典拠とした挙げた『仏本行経』『五夢経』『十二遊経』という3経典を並べるのは、『出定後語』のみである。

よって、繰り返すが、篤胤も全ての経典などを渉猟した上での見解を発しているわけでは無い。孫引きの部分も存在しているのだが、先に挙げたように「仏経を読む法」などと論じているのである。こういっては何だが、或る種の強弁、またはハッタリというべき発言である。

ただし、篤胤がこれで終わらないのは、更に、各種仏典中に見える記述を比較しながら(この辺はそれこそ、富永の方法を真似たとも言える)、矛盾的記述を見出しつつ、仏典自体の信憑性を剥奪するように話を進めるからである。それも、話としては長いので、一つの記事にしてご紹介したいと思う。この記事としては、悉多太子の実際の妻子の数について、一度考えておきたいと思う。

例えば、『長阿含経』巻22では「白浄王に子有り、菩薩と名づく。菩薩に子有り、羅睺羅と名づく」としており、更に、『起世経』巻10でも「浄飯王に二子生まるる、一には悉達多と名づけ、二には難陀と名づく〈中略〉諸もろの比丘よ、菩薩の一子、羅睺羅と名づく」とあって、どうも阿含部の経典では羅睺羅(ラーフラ)尊者一人を、悉多太子の子供として認識している印象である。一方で、富永や篤胤が引いたのは後代に作られた仏伝であり、信用度という観点ではもちろん、篤胤がいうほど強くない。

よって、他にも、「如来、一切を視るに、猶お羅睺羅の如し」(『央掘魔羅経』巻4)などという表現も見られるのである。この辺は、後の『妙法蓮華経』などでも「今此の三界、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生、悉く是れ吾が子なり」(巻2・譬喩品第三)などの表現にも見えるが、しかし、前者の経典の方が具体的である。

なお、繰り返しになるが、悉多太子の妻子の数に関する議論を篤胤が続けているので、それは次回としたい。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事