つらつら日暮らし

7月1日 一部地域では「盆月」

今日は7月1日である。東京都内、横浜市、山形県鶴岡市など、一部地域では、「7月盆」が始まった。その意義については、以下の通りである。

 七月朔より望まで、毎日晡時、放参にて施食を行う。朔日より、施食の刹竿をたつ。幡の文に「宝楼閣」の小呪を写す。小施架を殿前に設け、架上に五如来の幡をかく。浄水に浄飯を和して、架に安ず。外の供具は、住持の意楽による。或いは寺院の先例あり。洒水枝は溝萩を束ねて用う。華炉燭、湯茶菓を備え、鳴鐘集衆。
 両序、施食架に近きを上位とし、大衆は両序の後に立つ。維那初めに焼香し、帰りに住持を揖請して帰位す。時に行者、大磬三声、首めに『大悲呪』、次に「施食文」。大衆、同音なり。誦呪の間に、住持、飲食加持の印契・観念・三業、如法なるべし。「以此修行」の回向の時、両序、上首より両々相い揖して、施架に焼香す。維那、普回向了って、両序左右上下に環転して、上首、本尊の方に至る。住持、本尊に上茶湯して、楞厳遶行了って、維那、施食の回向。了って三拝、散堂す。
 盂蘭盆大施食の法は、中庭を浄除し、施架を設け、随分に供具を安んじ、五如来、四天王、并びに焦面鬼王の幢をかけ、二十五本の小幢作りて、架上にたて、二十五有、薦抜の意を表わす。また殿前の卓上に、別に小供具を備え、正中に疏を安ず。勤行の次第は、常のごとし。維那、「尽出輪回生浄土」を挙して、直に卓前に進んで、宣疏。預修の経目、及び疏末の回向了って帰位し、両序環転し、本尊上供、楞厳遶行了って、回向・三拝・散堂。
 薦亡施食の法は、小施架の上に位牌を立て、小供具、先の如し。「尽出輪回生浄土」の次に直に普回向して、両序環転して、本尊上供。次に亡者に献供して、遶行なり。余は上に同じ。
    面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3・年分行法


江戸時代の中期であるが、だいたいこのような流れで施食会を行うことが定まったようである。定まったというのは、施食会というのは古来、禅宗の清規には、そう多く見られるものではなかった。ただし、宗門では初期の清規になる『瑩山清規』(1324年編)に、既に施食会が見られるので、伝統的な行事だったと見て良い。

それで、江戸時代の面山禅師は、『瑩山清規』が様々に書写される中で、施食会の行法も一様ならざる状況になったとして、『甘露門』を著したとされ、その上で年分行法に組み込まれたのが、上記作法である。この作法を見ると、まず、準備については、現状の施食会とそんなに変わらない感じといえようか。

そして、「両序」以下は、その中の法要である。まず、「施食架」に近い方を両序の上位とするというのは、その通りである。この辺、現代でも同様に行われている。大衆の立ち位置もその通り。そして、最初に維那が焼香して、帰りに住持を揖請して帰位するというが、この辺の作法については、現代は行われている感じがしない。

また、大磬を三声して、『大悲咒』『施食文(甘露門のことである)』を唱えるというのは今も同様。それで、気になったのが「住持、飲食加持の印契・観念・三業、如法なるべし」である。これは要するに、密教で行うところの印を、住持(導師)に対して結ぶように促している。拙僧つらつら鑑みるに、親族に密教系の僧侶がいたとされる面山禅師は、この辺を当然だと思っているようだが、現代的にはどうだろうか?印を結ぶ必要はあるのだろうか?現行の『行持軌範』には、この辺を何も指摘していない。それはそうで、極力密教的要素を排除しようとしているから、塔婆などに梵字を書くことまで否定されているのである。

しかも、拙僧的に聞いたところによれば、やはり密教は密教、禅宗は禅宗であって、禅僧が密教の印を結ぶことについては不要だという話であった。むしろ、仏心宗と異称されるその本質に忠実に、内心にその功徳を明らかに思うべきだともいう。拙僧は、実は、後者の方に依拠している。印は不要だし、その功徳は常に心の中に建立されることにより、かえって三界唯心の考えによってあらゆる世界に功徳を及ぼすべきだと思われる。

それで、現在は五如来焼香が一般的だが、実は施食会の差定では末尾の回向偈での焼香が正しい。そして、この辺は現代とは順番が違うが、施食架への供養が終わってから、「両班転換」して、本尊上供を行った。その場合の読経は『楞厳咒』である。

それから、「盂蘭盆大施食」について、「五如来、四天王、并びに焦面鬼王の幢」を掛けるとあるが、この最後の「焦面鬼王」については現在見ない作法である。『従容録』第28則の示衆にも見える鬼の名前だが、『釈氏要覧』「施食」項に、『焦面大士経』からの引用文があるのだが、これは一体何だろう?なんだか、調べてもよく分からない。とはいえ、印度典籍の漢訳仏典には密教系も含めて見えないので、中国での信仰といえようか。しかも、観音の現れとも考えているらしい。この「焦面鬼王」だが、『明治校訂洞上行持軌範』の段階で、この鬼の幡を使うのは、『椙樹林清規』『僧堂清規』のみとして、結局は用いるべきでは無いとの判断が下された。よって、現在はほとんど見ない。

他については、ほとんど取り上げるべき事柄が見えないので、ここまでにしておくけれども、現在の我々が行っている施食作法は、面山禅師の見解を元にしつつ、だいぶ変容している部分もあると分かった。そして、「大施食」「薦亡施食」など、幾つかの区分も当時は存在したが、これについても現代の、特に現場ではほとんど考慮されていない印象である。

ただ、その現代の現場を相対化していくために、こういう記事の学びがあると思っている。そうすることで、かえって今の我々が行う作法の意義を再確認できるためだ。

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