釈迦牟尼仏、すでに十二年中頂戴して、さしおきましまさざるなり。その遠孫として、これを学すべし。いたづらに名利のために天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する頂門を、いま仏衣頂戴に迴向せん、よろこぶべき大慶なり。
『正法眼蔵』「伝衣」巻
これは、「伝衣」巻にある一節であることからもお分かりいただけるように、「御袈裟」について述べている。つまり、釈迦牟尼仏は、出家してからというもの、十二年間袈裟を頂戴して、差し措く(=止める)ことが無かったといっている。毎日毎日御袈裟を頂戴し、身に着けて修行しておられたという意味になる。道元禅師は、我々自身、仏陀の遠孫なのであるから、それを能く学ぶべきであると誡めておられる。
往々にして、我々が頭を下げるのは、世俗的功利心があるためである。無論、世俗で生きて行くのなら、それはとても大切なことだ。礼儀も知らないような場合、普通に世間で生きて行くのも大変だろう。しかし、それがただの礼儀では無くて、打算的となり、自らが利益を得るためだけに行われる場合、結局は名利のために天・神・王・臣を拝することになるのである。これは一見すれば、礼儀に契っているかもしれない。だが、見た目だけであり、内心の名利心によって、むしろ我々自身の世間的善行は退転する。無論、仏道修行には遠之極である。
いま仏祖の大道を行持せんには、大隠・小隠を論ずることなく、聴明・鈍痴をいふことなかれ。ただながく名利をなげすてて、万縁に繋縛せらるることなかれ。光陰をすごさず、頭然をはらふべし。
「行持(上)」巻
名利を離れるとは、如何にして世俗的な価値観から、「身を引いて」いくか?が問われている。よって、この場合も、「隠」の方法について、世俗の中にあってもそれに染まらない「大隠」として生きるか?それとも、深山幽谷に隠れる「小隠」として生きるか?なんて論じることは無く、本人の聡明さなども考えること無く、とにかく名利を投げ捨てて、様々な物事に把われず、時間を無駄にしないで修行すれば良いとされている。
我々はこの時、自らが頂礼しているその先を、天・神・王・臣では無く、仏陀も頂戴していたという仏衣、つまりは御袈裟に対して頂礼すべきであるといえる。おしいただくようにして御袈裟を頂戴すること、それが可能であるという事実そのものが、慶ぶべき大慶なのである。御袈裟を頂く限り、そこに名利は無い。頂いているのは仏法そのものである。ここが肝心である。打算的でも無い。それであれば、むしろ、悟りたくて必死になって坐禅をしたり、他人に先んじたくて仏典・祖録を学んでいる方が、余程打算的である。
しかし、自らが今、1人の仏道修行者として生きようとして、仏祖方を追慕して無心に御袈裟を頂戴する時、それがまさしく修行である。
#仏教
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