又我子羅睺羅を出家させんといつて、弟子の目連を耶輸陀羅の処へ遣したる所に、耶輸の云には我夫、太子たる時、我を娶り妻となしヽより、われ夫に事へて一つの失もなく、いまだ三年に満ざるに家を出て逃れ去り、父王自らゆき迎へども其命にたがつて随はず、鹿皮の衣をきて其さま狂人(※人権問題に注意)の如く、山沢にかくれ居て勤苦すること六年、成道して国に帰れども親を顧みず、旧恩をわするヽこと路人(※人権問題に注意)より劇く、我母子をして孤を守り窮を抱かしめ、今又使を遣しわが子を求めその眷属となさんとするは、何とてかくの如く酷しきぞ、成道して自ら慈悲じやといはるヽが、慈悲の道は衆生安楽せしむべし、今反て人の母子を離別せんとす、苦の中にも甚しきは恩愛別離の苦に若たるはなし。こヽを以て是を推考ふるに仏に何の慈悲やあらんといふ、これは一々至極尤なるいひ分でござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』75~76頁
以上の内容から、釈尊は羅睺羅尊者を出家させようとして、弟子の目連尊者を派遣したが、釈尊の妻で羅睺羅尊者の母である耶輸陀羅(ヤショーダラー)妃に断られたという話になっている。しかし、これはどこが典拠になっているのだろうか?
どうやら、『未曾有経』巻上か、それを引いた『釈迦譜』巻7「釈迦子羅云出家縁記第十三〈未曾有経に出づ〉」になるかと思われる。それで、経緯としては上記の通りで、ヤショーダラーが羅睺羅の出家を拒否したという流れである。その後、目連尊者は浄飯王などにも相談したが、上手くいかず、最終的には釈尊自身が出て来て、以下のように諭したという。
釈迦が例の神通で空中に声をひゞかして、耶輸陀羅汝いかにわすれたるか、往古の世に汝より五莖の花蓮を買取たるに、汝世々ともにわが妻と成んことを求む。我夫を聞入ず、汝もし一切布施して意に逆らはずば、わが妻と成事を免さんといひしに、汝ちかひを立て世々生るヽ所の国城及び生る子、又吾身も君に随て施与して悔る心なからんといへり。然るに今なんぞ羅睺羅を愛惜して出家せしめざる、といつたでござる。これが不測でござる。耶輸が其語をきいて自然といかにも前世にさう約束して有けると胸にうかんで、今までかたく拒んだことが気の毒の心持になつて、羅睺羅を出家させたくなつて目連に渡したでござる。そこでまんまとらごらも出家にしてしまつたでござる。仏道の仕方はおもしろい事でござりますまいか。
前掲同著、76~77頁
こちらも、先に挙げた『未曾有経』の続く部分を元に篤胤が語った内容となっている。しかし、これは強引に出家させてしまおうという話になっており、今風の言葉で言えば「宗教二世」問題に相当するように思う。何故ならば、釈尊はヤショーダラーに対し、過去世での約束があって、逆らわないからこそ妻にしたのに、何故逆らうのか?というような話をして、結局羅睺羅を出家させてしまっているからである。
これは、篤胤に「仏道の仕方はおもしろい」と言われても仕方ない気もする。しかし、釈尊が何故、身内を出家させようとしたのか、その意図などを学ぶのは、また別の機会にしておきたい。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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