それは、次の一節である。
明治十七年十一月東京絶江の露堂に於て
菩薩戒弟子 藹々居士 大内青巒謹識
大内青巒編『曹洞宗両祖伝略』鴻盟社・明治17年
このように、青巒居士自身は自称の中に、「菩薩戒弟子」と入れ込んでいる。そうなると、この段階で受戒していたことを意味している。問題は、戒師が誰だったのか?ということと、いつ頃の受戒だったのか?ということが気になった。
それで、結論からいうと、良く分からなかった。例えば、この署名について、この後の文献も使い続けているのなら、その前の受戒という理解が可能だが、どうも、前の著作でも後の著作でも、この署名を使っているのを見付け切れていない。
そうなると、むしろこの明治17年というのが、受戒の機会だったのではないか?という仮定をしてみた。
そこで、前後に刊行された著作の題名などを見ていくと、或る傾向があることが分かった。よって、その考察を通して、戒師の存在を考えてみたい。まずは、明治16年から18年位までの著作については、かなり多くのものがあるのだが、今回の記事に関係がありそうな著作(編著)の題名のみ挙げると、以下の通りである。
●明治16年(1883)
・『校訂釈門事物紀原』鴻盟社
●明治17年(1884)
・『禅学入門』鴻盟社
・『仏道初歩』鴻盟社
・『日本仏教史略』鴻盟社
・『青巒居士演説集』鴻盟社
・『曹洞宗両祖伝略』鴻盟社
・嶺南秀恕著・大内青巒編『日本洞上聯燈録』鴻盟社
●明治18年(1885)
・『瑩山和尚伝光録』鴻盟社
・『正法眼蔵』鴻盟社
ここから何が分かるかというと、上記文献中の『曹洞宗両祖伝略』より前は、曹洞宗関係の文献は出していないのである。明治17年の前期には『禅学入門』を出してはいるが、内容は曹洞宗の大智禅師や、臨済宗の白隠慧鶴禅師などの文献から、目に付いた文脈を抜き書きして、青巒居士が簡単な解説を付した程度のものであるから、まだ曹洞宗とはいえないのである。
それから、他の文献は、完全に通仏教の立場であることが明らかで、そういう点からすれば、『曹洞宗両祖伝略』が青巒居士からすれば、本格的に曹洞宗という宗派に関わるようになった機縁(それまでも、後の両大本山貫首となる方々とは接点があり、明治9年の「曹洞宗教会条例」の起草などにも関わったとされる。また、上記の関連では、『釈門事物紀原』は滝谷琢宗禅師が序を寄せておられる)であると思われる。
そして、以下のような一節も見える。
抑も仰で高祖の真光を観たてまつらんと欲せば、宜く正法眼蔵を熟覧して而して始て得べし。俯して太祖の本徳を察したてまるらんと欲せば宜く伝光録を玩味して而して始て得べし。
『曹洞宗両祖伝略』「序」、漢字やかなを現代通用のものに改める
ここで、青巒居士は両祖の伝記を書きつつ、更には、『正法眼蔵』『伝光録』を読むように促している。それを受けるかのように、翌明治18年には、両方の縮刷版を発刊しているのである。その識語を見ると、上記の様子が少し理解出来る。
今、予の陋才微力を以て重刊合冊の事に従て僅に半歳にして忽ち円成することを得たる……
青巒居士、明治十八年七月の『正法眼蔵』識語
先の、『曹洞宗両祖伝略』は、明治17年12月のものであったが、その段階で青巒居士は、『正法眼蔵』『伝光録』を読む機会を得ていたようである。しかし、自身が曹洞宗に関わるようになり、そこで、宗典としての両著を刊行した、という流れになるようだ。
そうなると、やはり青巒居士が誰から受戒したかが気になるのだが、どうも、滝谷琢宗禅師だったのではないか、と思うようになった。実際に、この頃は滝谷禅師との付き合いが深く、『洞上在家化導義』などを書いたのもこの頃ではないかと思われるためである。そして、『正法眼蔵』を編集した経緯などもあって、後の『修証義』に繋がるのである。
結果としては、滝谷禅師の伝記などもしっかりと確認しないと、青巒居士の「菩薩戒弟子」について、その意義が判別出来ず、周辺的な傍証ではあるが、以上の通りに考えてみた。
ところで、もう一つ気になったのが、青巒居士の署名に見える「東京絶江」であるが、これは当時の青巒居士が住んでいた「麻布本村町」のことを指すらしく、「絶江坂」という坂道が存在している。現代の地名では、東京都港区南麻布2~3丁目付近に該当する。なお、絶江坂という名称の起源は、江戸時代初期に赤坂から移転してきた臨済宗妙心寺派の曹渓寺の開山・絶江和尚から採られたものらしい。こんなことも、付記しておきたい。
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