つらつら日暮らし

戒と智慧の関係について

戒と智慧の関係というと、一般的には戒定慧の三学という関係性で考えられるところだが、意外と古そうな教えの中に、この三学に依拠しない関係性を見出したため、紹介がてら学んでみたい。

 仏言く、「善き哉、善き哉、汝の説く所の如し。戒有れば則ち慧有り、慧有れば則ち戒有り。
 戒、能く慧を浄め、慧、能く戒を浄む。
 種徳よ、人の手を洗うが如し。左右、相い須う。左、能く右を浄め、右、能く左を浄む。此れ亦た是の如し。
 慧有れば則ち戒有り、戒有れば則ち慧有り。
 戒、能く慧を浄め、慧、能く戒を浄む。
 婆羅門よ、戒、慧、具うる者、我れ比丘と名づくると説く」。
    『長阿含経』巻15「第三分種徳経第三」、訓読は拙僧


まず、この「種徳経」についてだが、種徳という名前の婆羅門に対して、世尊が教えを説いたもの、となっている。上記一節の文脈は、種徳婆羅門の問いとして、何が真実の「婆羅門」なのか?という話をしていく中で出てきたものである。この一節の前には、戒と智慧の関係を用いて、種徳は婆羅門の定義だとしているのである。

ところが、世尊は種徳の言葉をそのまま認めて上記のように示された。つまり、戒があれば智慧があるし、智慧があれば戒もある。更に実態を捉えれば、戒がよく智慧を清らかとし、智慧がよく戒を清らかにするという。この場合の清らかさとは、誤りが無いという理解がされるべきものである。

しかも、その関係性を世尊は、我々が手を洗う様子に例えて示しておられる。手を洗う場合には、左右の手を両方用いるのである。その際、左手で右手を洗い、右手で左手を洗っている。そして、その様子が戒と智慧の関係にもなるのである。

その上で、世尊は戒と智慧が両方具わる者を、比丘と名付けるとしている。種徳はそれを婆羅門としているのだが、世尊は比丘だとしている。つまり、戒と智慧という抽象的な語句だけでは、婆羅門と比丘との区別が出来ない。だが、この後、種徳は仏教の戒に興味を示し「云何が戒と為すや?」と尋ね、世尊は以下のように答えられた。

斯に由りて精勤し、專念して忘ぜず、独り閑居を楽い之れを得る所なり。婆羅門、是れを具戒と為す。
    同上


つまり、独居に基づく寂静を願う様子が、具戒であると世尊は示された。一方で、「智慧」についても示されている。

斯に由りて精勤し、專念して忘ぜず、独り閑居を楽い之れを得る所なり。婆羅門、是れを智慧具足と為す。
    同上


世尊は、智慧の具足についても同じ意味で示された。つまるところ、独居に基づく寂静の境涯こそが、具戒でもあるし、具足智慧にもなるのである。ということは、その境涯の中で、戒と智慧の一如が成立していることになるのだろう。また、ここが、婆羅門と比丘の違いともいえることが理解出来るのである。

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