まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修するをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごときらを名づけて自力とす。
『顕浄土真実行文類』
いわゆる、『教行信証』「行巻」ということになるけれども、この一節は、曇鸞『往生論註』からの引用である。ここで、戒定慧の三学の意義が良く示されていることが分かる。まず、戒についてである。人が何故、戒を守るか?というと、曇鸞は、三途に堕ちることを恐れるから、禁戒を受持するのだとしている。三途に堕ちるということは、地獄・餓鬼・畜生という三道への堕落を意味している。戒を受持することが、個人的に身心を律することを意味しているのではなくて、輪廻を前提とした発想になっていることに驚く。
それで、曇鸞の根拠となるような教えがあるのか?と思ってみると、漢訳仏典では似たような文脈を見出すことは難しいことでは無い。例えば、以下の文章はどうか?
事相の持戒は但だ能く三途を升出して人天の楽を受く。三諦三昧二死彼岸と名づけず。理に拠りて亦た応に合すべし、持戒を斥けて三悪道に堕す。
荊渓湛然『止観輔行伝弘訣』巻2
律関係の文献にも似たような文脈があるので、インドは知らないけど、中国では持戒の有無によって人天の楽を受けるか、三悪道に堕ちるか決まるという発想があったと見て良い。それでは、禁戒を受持することと、禅定との関連については、いわゆる「三学」に関連して、一般的に言われることなので、ここでは省略しておく。
最後、気になるのが、「禅定」と「神通」の関係である。無論、それが無いということは無い。例えば、大乗仏典ではこのようにある。
又欲を離れ 常に空閑に処し
深く禅定を修して 五神通を得るを見る
『妙法蓮華経』「序品第一」
まさに、2行目をご覧いただければ、禅定を修行して、神通を得ると明記されている。この発想、禅宗ではそれほど多く用いられた形跡が無い。圭峰宗密などは言っている気もするけれども、彼は教禅というべき立ち位置の人なので、いわゆる祖師禅の伝統と同じく扱って良いとは思えない。
さて、まぁ、結局この記事で何を言いたいかというと、曇鸞がいう所の自力については、少なくとも今の我々には余り当てはまりそうに無いということだ。確かに、我々は菩薩戒を受持し、坐禅も行うけれども、神通力については、五神通などの力では無くて、日常の行儀全般が、神通の現れであるという。そういうことを思うと、意味合いは大分違っている。
微細な違いを強調すると話は別なのかもしれないが、ちょっと曇鸞の発想には難しさを覚えてしまった。
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