つらつら日暮らし

今日で日清カップヌードル誕生から50周年

日常的に食べる人も多いであろう、日清カップヌードルの誕生は1971年9月18日だったらしく、結果として今日は、カップヌードル誕生から50周年となる。

「カップヌードル」ブランドが、発売50年目に世界累計販売500億食を達成(日清食品ホールディングス)

それで、当然にカップに入ったラーメンを食べるのがカップヌードルなので、今日という日は仏典に見える「麺」について調べてみた。

餅とは、小麦の麺にて作し、大麦の麺にて作し、粳米の麺にて作し、大重華餅、小重華餅,是の如きは、比に諸もろの清浄餅なり。
    『十誦律』巻13「九十波逸提之五」


ここで、「?」となった。麺というのは、いわゆる小麦をこねて生地を造り、それを薄く延ばして切ったものを意味すると思うのだが、ここでは「餅」の説明に、「小麦の麺」「大麦の麺」、ここまではまだ理解出来るが、更に「粳(うるち)米の麺」まで出てくると、意味不明。

そう思っていたら、この「麺」の意味は、「粉」であるという。つまりは、麦や米などの粉のことを「麺」といっており、それで「餅」を作ると述べているのである。当然に、清浄食となるわけである。なお、中国の禅宗では、この「餅と麺」との関係から、或る偈頌まで詠まれている。

  静乱不二
 声聞の喧を厭いて静を求むるは、猶お麺を棄てて餅を求むるが如し。
 餅即ち従来是れ麺、造作すれば人に随いて百変す。
 煩悩即ち是れ菩提なり、無心なれば即ち是れ無境なり。
 生死と涅槃と異ならず、貪嗔焔の如く影の如し。
 智者は無心にして仏を求め、愚人は邪に執し正に執す。
 徒労に空しく一生を過ごし、如来の妙頂を見ず。
 婬欲の性空に了達すれば、钁湯炉炭自ずから冷しし。
    『聯灯会要』巻30「誌公和尚十四科」


これは、中国南朝の梁にいた宝誌和尚が詠んだ偈頌の1つである。なお、宝誌和尚というのは、同じく梁に来たとされる禅宗の初祖・菩提達磨尊者とも関わりがあったともいわれるが、あくまでも伝説的ではある。その点宝誌和尚は、この人も様々な伝説があるけれども、実在した僧侶であるとされる。

しかも、宝誌和尚の特徴は、徹底した空観の主張であり、二項的な対立を無化する方向に持っていくという特徴がある。その意味で、煩悩即菩提などは、この人の得意とする論法である。その点で上記の1首を見ていくと、例えば声聞乗の者は精神的な煩わしさを棄てて、寂静を求めると判断しつつ、それを、「麺を棄てて餅を求めるようなもの」と批判しているのである。

つまり、原料となる粉を捨てて、結果の餅だけ求めることを意味しよう。当然に宝誌和尚はそこに道理が無いと批判しているわけである。以上のように見てみると、「麺」という用語が出ていたからといって、今時の「ラーメン」に近いものを意味しているとは限らないのである。なお、色々と辞書などを調べてみると、粉である「麺」をこねて作ったものも「麺」と呼んでいるのである。

そうしたところ、「誡洗麺文」という文章を見付けたので、読んでみたい。

  賾禅師誡洗麺文
 詳らかに夫れ麫豈に天然ならんや。麦、地涌するに非ず、衆生の汗血を尽くし、乃ち檀越の脂膏なり。本より形枯を療じ道業を成ぜんと為す。尋常に受用すれば尚お恐難消す。況んや盪洗の精英なるに於いて唯だ余筋の滓なるのみ。全く五味に資して美しき色香を借る。巧みに千端に製して魚肉を擬形す。
 〈中略〉但だ願くは参禅して髄を得るに、何ぞ麺を洗いて筋を求むることを須いんや。縱い万両の黄金を消すとも、正に好きは粗羹淡飯なり。既に多くを求め道を妨ぐるを免がる、自然に清高に向かう所なり。淡薄の家風と云うと雖も、別に是れ一般の安楽なり。痛く円通の慈訓を想い、真に換骨洗腸に堪え、深く舜老の規縄を思え。須らく是れ斬釘截鉄なるべし。大衆、同じく道念を推し、供養の蕭疎を嫌うこと莫れ。仮饒、下山して僧頭を斫るも、決定して常住の麺を洗わざれ。
  元符三年十一月一日住持宗賾白す
    『緇門警訓』巻8


この元符三年というのは、西暦1100年のことである。中国では北宋代であったが、安定した時代の中で仏教文化も興隆した。そこで、改めて『禅苑清規』の著者でもある長蘆宗賾は「洗麺」という行為を誡めたのである。いったい、「洗麺」とは何なのだろうか?上記の内容を見る限り、ここでいう「麺」は、やはり小麦や米の「粉」を意味している。つまり、それを用いて巧みに料理がなされれば、五味にもなり得るし、「千端に製して魚肉を擬形す」というのは、小麦粉を使って、肉や魚をまねて調理する、いわゆる精進料理に繋がるものだったといえよう。

それで、「洗麺」というのは、「但だ願くは参禅して髄を得るに、何ぞ麺を洗いて筋を求むることを須いんや。縱い万両の黄金を消すとも、正に好きは粗羹淡飯なり」とあって、「麺を洗う」という行為は、参禅して髄(達磨尊者が伝えた仏法)を得ることを、「麺を洗って筋を求むる」ことだとしている。また、「縱い万両の黄金を消すとも、正に好きは粗羹淡飯なり」ともあるので、「麺を洗う」とは、より良い料理を求めることを転じて、自らの本質などを無視して、強引の仏を求めたりすることなのだろうと思う。

ということで、カップラーメンは洗わずに、お湯を入れて食べよう、とかいう結論にすると、怒り出す人が出て来そうだが、それしか思い付かない。

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