若末世にても、如来の正法正義によりて、二百五十戒を守り、四縁・十縁具足して、如法に法義を勤めますれば、此人が末世の大福田・大導師じや。此を僧宝と云じや。何様な学者でも、智者でも、手跡が見事でも、持戒清浄で無ければ、実の僧宝では無い。結縁の分斉じや。
慈雲尊者『三帰法語』11丁表
さて、今回見ていきたいのは、持戒清浄かどうかで判断される、僧宝と結縁の問題である。ただ、当方の調べ方が悪いと思うのだが、慈雲尊者がどの辺を典拠にしてこれを仰っているのかが分からなかった。
ただ仰っていること自体は理解しておきたいと思う。まず、慈雲尊者は「末世(末法)」であることを前提に話をしておられる。末法の世とは、教行証の教のみが残る時代ともされており、行証が無いという。
しかし、ここでは如来の正法と正義によって、二百五十戒(声聞戒)を守り、四縁・十縁が具足され、如法に法義を勤めれば、この人は末世の大福田・大導師になるとし、また僧宝であるという。つまり、本来であれば、三学は持戒から禅定・智慧と進むものだが、これについて、持戒のみでも十分だという立場だったことを意味する。
ところで、「四縁」と「十縁」について採り上げたいが、「四縁」とは因縁・次第縁・縁縁・増上縁(『大智度論』巻32)とされることが一般的か(実際、訳語の問題も含めて、複数の表現がある)。一方で、「十縁」が結構難しい。調べてみると、『舎利弗阿毘曇論』を典拠に論じた文献があったので調べてみたが、「十縁とは、謂わく、因縁・無間縁・境界縁・依縁・業縁・報縁・起縁・異縁・相続縁・増上縁なり」(同論巻25「緒分遍品第一」)とあった。
要するに、仏道を学ぶのに、向上していく因縁のことを指している。
さて、一方で慈雲尊者が述べるのは、どのような学者・智者であっても、持戒清浄で無ければ、実の僧宝では無いとしている。先ほども述べたように、持戒こそが、僧宝か否かを分ける基準なのである。その場合、持戒していないが、受戒のみはしているという者の場合、慈雲尊者にいわせれば「結縁の分斉」だという。
つまり、仏教に縁はあるけれども、他の者の仏道への学びなどを増進させないことを意味しているのだろう。転ずれば、持戒清浄の者は、他人の学びにも良い影響を与えることを意味している。よって、「大福田」とも呼ばれるのだろう。
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