つらつら日暮らし

『仏垂般涅槃略説教誡経』を学ぶ(令和6年版)

さて、今日は曹洞宗で釈尊涅槃会に合わせて読まれる『遺教経』の一節を見ていきたいと思う。

 汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に、諸の放逸を捨てること、怨賊を離れるが如くすべし。大悲世尊所説の利益は、皆以て究竟す。
 汝等、但だまさに勤めてこれを行ずべし。若しは山間に在っても、若しは空沢の中に於いても、若しは樹下に在っても、静室に閑処するも、所受の法を念じて忘失せしむること莫れ。常にまさに自ら勉めて精進して、これを修すべし。為すこと無くして空しく死すれば、後に悔有ることを到さん。
 我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すると服せざると、医の咎に非ざるなり。又、善く導くものの、人の善の道に導くが如し。これを聞いて行わざるは、導くものの過に非ず。
    『仏垂般涅槃略説教誡経』


本経典では、一心に集中して、放逸を捨てるように説く。その時には、怨みのある賊から自らを遠ざけるように、捨てなくてはならない。それくらい、放逸とは、我々仏教徒にとって害悪となる。道元禅師は或る時、「然どもまた、人は何にも思はば思へとて、悪き事を行じ、放逸ならんはまた仏意に背く」(『正法眼蔵随聞記』巻4-3)と述べられた。放逸であることは、仏意に背くのである。

また、一心に集中することは、如何なる場所、如何なる環境にあっても行うべきだという。その時の基本は、受けた教えを忘れることなく、精進修行すべきである。なお、「樹下」とは、かつてインドでは、大きな「樹」は、修行者にとっての拠り所であった。仏陀が、菩提樹下で正覚を成就されたのは、決して偶然ではない。大樹には、樹神が宿り、修行者を護持してくれるという。それは、雨や災難を避けてくれる大樹のイメージが、樹神を喚起してくれた。その時、事実、樹神は宿る。

しかし、この一節で、とても仏教っぽいと思うのは、教えを聞かない場合、それは教えを説いた者の責任ではないという見解である。逆にいえば、教えを容れるも容れざるも、それは聴衆にとっての自由なのである。当然に容れた方が、自らの安寧に近付くわけで、事実上、容れないという選択肢はない。ただ、何時の世にも、天の邪鬼が居る。よって、そのような者達に配慮された言葉が見える。

いや、むしろ、これが仏陀の入滅の時に説かれたことが大きいといえる。もう、自らは死去してしまうのに、その時になっても、まだ教えを聞こうとしない者達を、突き放した。いや、もう突き放そうと突き放すまいと、仏陀は入滅してしまう。だからこそ、このような教えも語られている。

汝等比丘、悲悩を懐くこと勿れ。若し我、世に住すること一劫するとも、会うものは亦まさに滅すべし。会って、しかも離れざること、遂に得べからず。
    同上


仏陀は、「会者定離」は世の習いであると説く。生ある者は必ず滅する。それは、世尊であっても逃れることは出来ない。仏陀には、余り「教祖」という言葉は似合わないが、定義上はそうなってしまうため、敢えて申し上げれば、死にたくなくて死ぬ教祖ではなく、始めから死ぬことを受け容れている教祖である。でも、そのおかげで、我々も死を超越出来る。それは、死なないというのではなく、死ぬ。ただ、死ぬ。

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