さて、初期曹洞宗教団の「本尊」について、ちょっとした考察をしてみたい(というか、先行研究が複数存在しているので、それらを読みたい人は、読まれると良いと思う)。まず、高祖道元禅師が自ら開かれた京都深草興聖寺と越前大仏寺(後の永平寺)について、以下の記述が知られる。
聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。いはゆる、東西にあひむかへて、おのおの南北行にしく。
『正法眼蔵』「看経」巻
「看経」巻は、「爾時仁治二年辛丑秋九月十五日在雍州宇治県興聖宝林寺示衆」とあるので、興聖寺で書かれたものである。そうなると、同寺の仏殿には「釈迦仏のまへ」とある通り、釈尊が本尊として祀られていたことが分かる。ただし、道元禅師は「本尊」という用語を使っておられないので、概念としての「本尊」をどう捉えるべきかは迷う。
その後、大仏寺だが、以下のような説法が知られている。
下座し、大衆と与に同じく仏殿を詣で、如来の清浄法身を拝浴す。
『永平広録』巻2-155上堂
こちらはまだ、永平寺が大仏寺と呼ばれていた頃の説法なので、大仏寺を開いてから約1年くらい、という状況である。ただ、この「仏殿」が本当にあったのかどうかは、疑問視する意見もある。
当山樹功草創するも、土木、未だ備わらず。
同上巻2-139上堂
このように、土木(建築)が備わっていないと表現されている通り、大仏寺ではまだ、伽藍整備が進められていたという指摘もある。これを受けてか、以下のような指摘もある。
寛元二年甲辰七月、吉祥山永平寺を草創するも、土木未だ備わらず、堂閣僅かに両三なり。
『永平寺三祖行業記』「初祖道元禅師」章
先の上堂の通り、「土木未だ備わらず」は道元禅師の教えだが、「堂閣僅かに両三なり」は史伝での記述である。しかし、道元禅師入滅後に書かれたものなので、ここだけを見ると、御在世時に建物が揃っていない印象を得るが、一方で巻2-155上堂で「仏殿を詣で」とあるということは、巻2-139上堂よりも、伽藍整備が進んだ可能性があるともいえる。それに『三祖行業記』はあくまでも「草創期」に関する指摘だと読むことも出来る。その意味では、もちろん現在のような規模では無かったであろうが、主要な伽藍自体は御在世時に建て終わったという話で良いと思う。
それで、この記事で問題にしたいのは、この時の大仏寺(永平寺)仏殿で祀られていた本尊である。巻2-155上堂の通り、「誕生仏」が置かれていたことは間違いないが、それは釈尊降誕会の時であろう。普段は何だったのか?一部の伝記資料では、「△本尊如来、開山自手御作之事」(『建撕記』の一部写本)とはあるが、道元禅師の時代を正確に表現したとは断定出来ない。
そこで、少し後の時代ではあるが、関連した記述として以下の一節を見ておきたい。
本寺に帰りて山門を建て、両廊を造り、三尊を安置し、祖師三尊・土地五躯、悉く之を作る。
『三祖行業記』「三祖介禅師」章
ここで、「三尊を安置」という一節があるが、場所も何も書いていないけれども、永平寺仏殿でのことだと考えられている。つまり、永平寺三祖・徹通義介禅師の時に、本尊として三尊が安置されたのである。転ずれば、道元禅師の頃にはまだ、三尊では無かったに違いない。
そして、この三尊がそのまま、現代まで続いているのだが、古い記録では、以下の一節からも肯定される。
安楽兜率、左方右辺なり。
『義雲録』巻上「永平寺入院・仏殿法語」
ここだけだと、少し分かりにくいかもしれないが、この一節について、江戸時代の註釈では、以下のように書かれている。
永平寺仏殿の本尊、三世仏なり。故に此の語有り。
澤大雲老師『義雲和尚語録輗軏』巻上
つまり、永平寺五世・義雲禅師が永平寺に入られる際の法語、特に仏殿法語で「安楽兜率」とあるから、安楽(浄土)は阿弥陀如来、兜率(天)は弥勒如来をそれぞれ意味しているから、永平寺の「三尊」とは「三世仏」であり、阿弥陀・釈迦・弥勒の三如来なのである(この組み合わせ法には諸説あるので、また別の記事で検討したい)。
ところで、永平寺は三世仏になったが、他の寺院はどうだったのだろうか?意外な結果が出てくる。
仏に付ては先当寺本尊は〈永興寺事也〉、一代の教主釈迦大師、滅後二千余歳の後あらはれて為本尊、此仏は木也、きざみつくるは世間の人なり、是は衆生方よりの見なり、仏の方より云はば世間に木もあるべからず、草も不可有、有情大地までもなしとも可学、
経豪禅師『梵網経略抄』
以上の一節は、少しく木像としての本尊について、思想的な意義も加わっているものの、理解出来るのは道元禅師の法嗣・詮慧禅師が開いた京都永興寺の本尊が、釈迦仏だったことである。ただし、詮慧禅師の法嗣である経豪禅師は、以下のようにも書かれている。
又一軸の画仏と云へばとて、我等が所懸の本尊一幅なむど不可心得、此一軸は以尽界一軸と談ずべし、以仏祖一軸と習べし、此理なるゆへに、一切諸仏は皆画仏也、一切画仏は皆諸仏也とは云也、
『正法眼蔵抄』「画餅」篇
上記は、以下の一節について註釈されたものである。
餅を画する経営もまたかくのごとし。人を画するには、四大五蘊をもちいる、仏を画するには、泥龕土塊をもちいるのみにあらず、三十二相をもちいる、一茎草をももちいる、三祇百劫の熏修をももちいる。かくのごとくして、一軸の画仏を図しきたれるがゆえに、一切諸仏はみな画仏なり、一切画仏はみな諸仏なり。
『正法眼蔵』「画餅」巻
道元禅師が示された「一軸の画仏」とあるのを、註釈では「我等が所懸の本尊一幅」とされるので、いわば本尊としては木像だけでは無く、掛け軸としての画仏(絵で描かれた仏)が存在したことも理解出来るのである。それに、おそらくは釈尊なのだろう。
その釈尊信仰の展開として、更に以下の教えを見ておきたい。
観音は当山の先の本尊なり、故に是れを主位の脇士と為し、虚空蔵、宝を雨ふらして供衆する為に之を勧請す、是を以て仏法僧三宝、二聖〈観世音、虚空蔵〉并びに二天〈毘沙門、迦羅天〉に憑いて為に檀越の供衆す。
『洞谷記』
こちらは、太祖瑩山紹瑾禅師が、洞谷山永光寺を開創する際の、本尊の変遷が知られる一節なのだが、当初同寺は観音菩薩であった。しかし、後に観音菩薩は脇侍の主位となり、虚空蔵菩薩とともに祀られていた。では、本尊は何だったのか?といえば、以下の通りである。
中尊釈迦牟尼仏、加賀国井家庄中田右馬尉、悲母十三年の追善の為に、以卅貫木を以て作る、瑩山五十貫を以て餝を奉る。
左脇士観世音菩薩、洛陽高辻大宮駿河法眼定審、先考定守法眼十三年の追善の為に、木作。
右脇虚空蔵菩薩、加賀国富樫庄野市藤次郎、自身の現当の願望皆ま満足せしむる為に、木作。
『洞谷記』
結果として、釈尊が本尊で、その脇侍に観音・虚空蔵が配置された三尊だったことが分かる。それで、何故この組み合わせだったのか?だが、これも瑩山禅師が指摘されている。
仏殿を最勝殿と称するは、最勝王経の説時は、観音・虚空蔵、是れ脇士と為るなり。
『洞谷記』
永光寺の仏殿は「最勝殿」と称したが、これは『最勝王経』という大乗仏典に由来し、更に同経では観音・虚空蔵が脇侍だったという(当然に、説経者は釈尊である)。それで、『最勝王経』だが、詳しくは『金光明最勝王経』といい、護国経典として知られる『金光明経』の義浄三蔵による異訳である。『金光明経』は「四天王品」が収録され、例えば日本の奈良時代に聖武天皇が各地に国分寺を建立されたが、その正式名称は「金光明四天王護国之寺」だったりする(総国分寺である東大寺も同様)わけで、護国経典の意味を理解していただけるだろうか。
そして、以上から瑩山禅師は永光寺を護国寺院として建立された様子が分かる。『最勝王経』にも巻6に「四天王護国品第十二」があるのである。それから、『最勝王経』の脇侍とはいうが、実際には数多登場する菩薩の2体というのが実態である。ただ、虚空蔵菩薩は巻2「分別三身品第三」に、観自在菩薩は巻7「如意寶珠品第十四」に主として登場する。瑩山禅師は同経典の把握を経て、以上の通り「最勝殿」を付けられたのであろう。
以上から、本尊について、初期曹洞宗教団は釈尊を中心に展開していたことをご理解いただけたかと思う。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事