何分とかで名著とは、ド厚かましい看板やねぇと笑っています。
まっ、550円のテキストが高いかどうかは、明日の放送をみてから、値踏みいたします。
Mさんのフラン来るについてのテキスト、今日買いまして、読みました。ああ、この方が管理?いや代表をなさっていたHPに、昔々寄せて頂いており、新書も買って(新刊)読んではいる典虚ということで、無礼の段、おゆるしあれ
<550円>で損しなかったと感じたのは、①フラン来る(こうしておきますね)が、収容所に収監される前に『死と愛』をほぼ書き終えていたということでした。 いやいや、これだけで、十分な情報でした、私にとっては・・・。若い頃に何冊買ったでしょうか? 友人にあげてはまた買い・・・の繰り返し。最後は、死を迎え待つ妹に・・・だったと存じます。
②次は、フラン来るがいくつもの収容所を転々としていたことも知りませんでした。
ここまでが、読んで得した点でした。(通知表や内申、すべてにわたって、褒めてから貶すの術)
わたしもかって、ヴィクトール・エミール・フランクルの著書をみすず書房の全集で読破した一人ですが、しかし、フランクルでは物足らず、通り越えて、次を求めるしかありませんでした。
どの宗教であれ(ここは無難に…)、「神」「仏」etc.は、<時空>を孕んだものの考え方、生き方を提示しているのではないかと私は思います。
人生、つまり「生」は、「死」あるからこそ、「生」でありうるのであって、そこに触れないで、「人生」だけで語ってしまうと、「生」そのものが軽くなり、理解が上滑りになっちゃうってこと・・・。
言い換えれば、「人生」を「生きている間の時間」という枠を嫁すと、「死んだらおしまい、生きているうちが花」って生き方に陥ってしまうのでは?
わたくしは、人間というものは、死んだとしてもその存在は決して消え去るものではないと信じています。たとえ、「無名」であったとしても・・・です。
いろんな宗教思想や宗派、実際に関わってはみましたが、人とつながる限り<組織>という形を伴うので、現実の行動、行為としては参与せずにいると申しましょうか。
そして、「歴史」というものは、生まれ死に、生まれ死んだ多くの人々の足跡、大きな流れ、歩みを知らしめてくれるものと認識しておるんですわ。
どうみなすかの違いはあっても、様々な「みかた」の違いあればあるほど、確かにその事実は、厳然として存在したということです。
自分の「みかた」だけで考えてはいけない・・・。相手が、なぜそのように考えているのか?を理解しようとしなければ、「実際にあったこと」へは近づけません。
勝者は自分にとって都合のよいように、物語としての「実際にあったこと」を書き換えます。古事記や日本書紀、記紀への関心がいまなお薄らがないのは
まあ、今のわたしたち(複数形)は、「歴史として語られる、ものやこと」があると認知しているはずですから、せめて、民々の人生に関わる行為(政治etc.)をしている者どもには、ここを承知してもらわないと困ります。
結論、フランクルの思想も、薬と同じかしら・・・。毒にもなるし、効き目がないこともあると。(了)
カテゴリーは「歴史」に変更! pm8:30
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