典虚てん手古舞

我が為の日々の記録! 74歳

失われた考える時間・・・

2013年07月24日 | 【時事雑感】イマドキ、世の中、この社会

「思う」はその対象に対して感情的に心を動かすことから、知性を運用させる行為までも、幅がある。しかし、「思う」「考える」と違って ①刹那的判断ないしは、②感性の没入で、それだけに対象把握は単一的であって、物事を分析的に眺めとらえる知的行為ではない

 これは、森田良行『基礎日本語』、角川小辞典7(昭和52年発行)から借用したもの。先日の『サンデー・モーニング』をみていたとき、「日本語コーナー」から取り出して、今もパソコンの側に・・・。

 先の日曜のこの番組で目を瞠ったのは、冒頭15分間を広島の遺体遺棄事件に割いていたことでした。常ならその週に起こった出来事を曜日を追ってのニュース・・・。

 いつもと違うじゃんと、メモを始めたときはすでに遅く、浅井慎平さんの「自分の中で考える時間をなくしている」という発言がいちばん強く頭に残りましたまた、「考えるということをしない社会」という指摘もありましたね。

 これはどういうこと?

 指示や命令に従って行動することに違和感を抱かない人が増えている・・・。いや、増えているというよりも、親世代が「無気力化した子どもたち」のため、おのずと次の世代、子どもらも情動で動きはしても、「考える」ことが困難になっているといえるかも知れません。

  持論として、教員というしごとを通じて思案してきたことの一つは、「期待される人間像」という言葉が登場した頃から、公教育・公立学校は、「使い勝手のいい人材作りの場」に変貌を遂げていったという歴史です。

 まあ、「公教育」は、教育を受ける当人のためではなく、体制にとって必要な人材を生成することを目的としていましたがね

 自ら進んで、「世の中の役に立ちたい」と考え、願うことと、「役に立て」と強いられることは、真逆のことです。

 

 そして、小学低学年に日本語を教える際に、購入した本だったかと思われます。

 先日の

コメント    この記事についてブログを書く
« 今朝は一体、何したのだろうと | トップ | ゲオルクジャン »

コメントを投稿