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ギリシャぶらり旅⑥

2024-12-29 | 旅行

12月14日 日曜日 ギリシャ5日目

きょうは、世界の中心、アポロン神殿のあるデルファイへ

気を付けなくてはいけなかったのは、ギリシャのローカルバスは、土日には便数が減ることである。デルフォイ行きのバスは、1日4便あり朝一番は8時30分であるが、日曜はこれが運休となり、朝一番は10時30分となってしまうのである。

朝に時間ができたので、ギリシャの遺跡はだいたい朝8時からオープンしているので、今日は古代アテネの政経の中心地、古代アゴラに先に立ち寄ることにした。

ホテルでの朝食は、ギリシャ風にトマトとチーズ、オリーブにギリシャヨーグルト、ふんだんにとれるオレンジジュースで。これはいい。あした、また同じホテルに泊まるので、大きな荷物はホテルに預かってもらう。やはりホテルはいいね。値段もホテルのほうが安い時もあるし。

古代アゴラまでは、ホテルから歩いて20分くらい。オモニアからモナスキ広場を通り、古代アゴラへ朝のお散歩かな。まだお店はあまり開いていない。地下鉄が走っている橋を越えて古代アゴラに入る。アゴラは、広場とかの意味で、市民が生活のため政治のため行き交うところである。ローマでいえばフォロ・ロマーノと似たようなところだろう。入場料は冬季割引の6€。古代アゴラは、正面にはアクロポリスの丘をのぞみ、右手には現存するヘファイストス神殿、左手には復元されたアッタロスの神殿がある。かなり広大であり、白い大理石が得点在している。ここからアクロポリスへの古代の幹線道路が伸びており、政治の中心である建物や大きな市場が広がっていた。古代ギリシャの繁栄の中心、アテネ、市民による民主主義が行われ、ソクラテスなどの哲人が議論を交わし、ペリクレスが演説をし、地中海全域からの文物が行きかっていた2500年前のアテネ。そんな活動の場所がここなのであり、いまは石が散乱し、草が生えている遺跡になっているが、往時の息吹を感ぜずにはいられない。

古代アゴラの案内図古代アゴラ全景

入り口からすこし進むと、オリンポスの12神をまつる台座がまず目に入る。残念ながら神像は現存していない。そしてその奥には、大きな建物跡、アグリッパの音楽堂跡である。アグリッパは初代ローマ皇帝アウグストゥスの一の腹心で娘婿あるが、彼が建てた音楽堂であるそうで、手前には銅像が建てられていた。その頭部はいま博物館に展示されている。ローマ時代にあっても、アテネは文化の中心として栄えており、ローマ人はギリシャを尊重していたのがよくわかる。

アグリッパの音楽堂

そこから北西側の小高い丘にはヘファイストス神殿が立っている。その手前の広場の建物跡がある。ここはソクラテスが人々を捕まえて議論を交わした場所である。ソクラテスは、人々との議論で無知の知を問い、議論を通じて新たな知恵、徳を得ようと産婆術といわれる討論法をここで行っていた。まさに、2300年前のソクラテスと同じ地面に立っている。そうした感動は実際にここにきて初めて感じられるものだろう。何も残っていないけれど。

アゴラ

その北側には、地下鉄1号線が走っている。1869年に開業した古いものであることは前にも書いたが、当時遺跡保存の考えもなかったのだろう、神殿跡を壊して作られた。いまでも地下鉄の双方の脇で発掘作業が行われている。また、この古代アゴラは、1930年代までは民家があったものを取り壊して発掘保存したそうである。日曜の朝ということもあり、人がまったくおらず、遺跡を体感するにはよい時間であったのかもしれない。

アゴラと地下鉄

小高い丘の上に建つヘファイストス神殿に向かう。ドーリア式の大理石の柱が今も残っており、また、ファサードも屋根もあり、朝日をあびて静かに立っているのは非常に美しい。かつては彩色されていたようだから、その時は人々もおり、内陣には鍛冶の神ヘファイストスの神像が安置され、巫女が控え、にぎわっていたのだろう。現在とはずいぶん違った風景だったのだろう。神殿から古代アゴラ全体を見下ろすことができる。手前には、ブーレウテリオンや中央回廊など、アテネの政経中枢の建物群、アクロポリスの丘のパルテノンが眺望できる。古代人と同じ場所で眺めていることになる。往時の賑わいは過ぎ去ったが、その繁栄を語る石や草が広がっている。かつては、アテネの英雄でクノッソスを滅ぼした伝説の英雄テセウスの神殿とおもわれていたようだ。

ヘファイストス神殿ヘファイストス神殿

パルテノンをヘファイストス神殿から

神殿から坂をおりていくと、アテネの民主主義の中心であるブーレウテリオン、ここは市民から行政の責任者として選ばれた評議員が実務を行ったところであり、隣には正方形の文書庫のメテオン、評議員の詰め所である円形の建物のトロスなど、古代民主主義が実際に行われた場所である。市民による政治であるからさぞやここでは演説や議論が交わされたりもしたし、ペリクレスも立派な演説をしたのだろうし、衆愚政治として市民を煽動した輩もいたのだろう。その舞台である。

政治の中心のすぐ南側には、大きな長方形の建物が2列になっている、横120mの巨大な建物で、中央柱廊と呼ばれ、市場があったとされる。地中海社会の中心でもあったアテネには、地中海やメソポタミア、エジプトとの交易も盛んであったから、世界中の様々なものがここで売られ、賑わいを見せていたのだろう。いまは石だけであるが。その規模の大きさから繁栄を推測することができる。

中央柱廊

この中央柱廊のそばに、違和感のある等身大の銅像2体がたっている。近づくとソクラテスと孔子であった。なんで孔子?と思うが、同時代の哲人ということで記念したそうだが、ちょっとどうなのだろうか。

ソクラテスと孔子

一番南のアクロポリスの丘の近くのアクロポリスとアゴラを広い道路沿いには、ビザンチン様式の古い教会がある。これも古代アゴラには違和感がある。時代が数百年ずれているからだろう。といっても、これも1400年ほど前のものだが、新しいものだからだ。今日は日曜日で朝9時前、市内のあちこちの教会から鐘が鳴り響く。ギリシャ正教会の本拠地であるんだよな、とも実感する。日曜日は教会に行くからだろうか、バス便が減ってしまう、日本は日曜が観光デイなのだけど、逆なのかもしれない。

アゴラのビザンチン教会

ビザンチン教会から古代の道をアゴラへ下ると、道の東側には、紀元前2世紀にペルガモンのアッタロス王から寄贈された神殿が完全に復元されている。完全に復元されているのはこれだけだろうであり、古代の壮麗さを感じることはできるが、細部のつくりなどはアバウトでなんかやはりしっくりこない。中は、古代アゴラ博物館になっており、アゴラで発掘されたレリーフ、彫像など、様々なものが展示されいる。ローマの将軍アグリッパの頭部も展示されている。でも、たくさんみすぎて流してしまい、記憶に残らなくなってしまった。

中央柱廊と博物館アゴラ博物館

博物館の脇には、アクロポリスとアゴラを結ぶ古代のメインストリートがあったようであるが、その道沿いにいくつかの石碑が立っている。高さ2mほどの大理石の石碑であり、ペルシャ戦争の戦勝記念、戦死者の弔いで建てられたという。ギリシャ語で彫られており、Google翻訳で読み取れるところは訳してくれる。2500年前のギリシャ語を直接読めるというのも面白い。

ペルシャ戦争記念碑

さて、次に、モナスティラキ広場のすぐ近くにあるハドリアヌスの図書館に立ち寄る。ハドリアヌスは2世紀ローマ5賢帝の一人で帝国中を巡回した皇帝であるが、ギリシャ、アテネは文化の中心であり、4世紀末のテオドシウス帝が廃止するまでアリストテレスの創設したリュケイイオンがあったように、学術文化の中核だったのだろう。ハドリアヌスの図書館は、外から見ると立派な建物に見えるが、それは壁しか残っておいらず、建物本体は崩壊している。ここにどれだけの文物があり、学者が研究を重ねていたのかな、と思うが、立派な建物の大理石を見るとその規模が想像できるというものである。入場料は冬季割引の3€であった。

ハドリアヌスの図書館ハドリアヌス図書館内部

10時30分発のバスに間に合うよう、リオシオン・バスターミナル(バスターミナルB)に向かう。デルフォイやメテオラへは、リオシオンから出発する。今日は、食事をとる時間がないと思われるので、バケットのハムチーズサンドを4€で買って乗り込む。

バスは、高速道路を進み、テーベあたりで西へ向かう。テーベといえば、紀元前371年にエパミノンダスとペロピダス率いるテーベの神聖隊を中心にレウクトラの戦いで最強の陸軍国スパルタを破り、ギリシャの覇権を打ち立てたことで有名である。神聖隊は同性愛者からなる最強の部隊であるという。マケドニアのフィリップスはテーベに人質として幼少期送られていたところでもある。平地が広がる内陸の都市である。特に観光資源はないのか、現在何らの観光情報はない。ちょっとさみしいかも。

そこから先は、かなりのアップダウンの山道を進みコリントス湾まで降り下る。デルフォイまであと20キロくらいである。時間は13時過ぎ。まあ、13時半には着くかなと思いきや、ローカルバスはイテアという街を経由し、デルフォイとは反対側のアンフィニという街で止まり、バスの乗り換えとなった。14時ころにアンフィサを出て山をぐんぐんとのぼり、デルフォイには着いたのは14時半になっていた。4時間もかかるとは。。。

バスの運転手に、メテオラのあるカランバカまで行くのだが、3時15分のバスはここでよいかと尋ねると、バスは3時ちょうど発だという。さらにデルフォイの滞在時間が短くなり、わずか30分しかないではないか。急いで遺跡に向かう。

バス停から遺跡までは1キロ弱位。大した距離ではないが、途中に博物館もあり、また、南側には山々が連なり、コリントス湾も遠く眺め絶景であるので、ゆっくりできたならば、、と思う。

チケット売り場につくと、遺跡は15時までで締まるといわれるが、そこまではいられないんだよな。入場料は、ここも6€。ゲートをくぐると山の急斜面にデルフォイの神殿その他の建物が白い大理石があちこちに林立している。かつて建物が立っていたときは、かなりの急斜面であるのでさぞや壮観だっただろうと思われる。ギリシャの聖なる山のパルナッソス山の斜面に建てられており、ここが世界の中心、世界のへそといわれたところか、そう思うと神聖な感じはする。しかし、ずいぶんと町から離れた険しい山中であり、ギリシャのどこから来ても遠いし、かつては歩いてきたのかと思うと、こんなとこなのか、と思わざるを得ない。でも神聖さは強いともいえる。

デルフォイ参道

参道を進んでいくと、ちょっと立派な建物がアテネの宝物庫であり、ドーリア式の柱が2本立っており、復元されている。アポロン神殿への向かう参道には、各ポリスの宝物庫が並んでおり、ポリスからの貢納品が収められていたのだろう。アポロン神殿のすぐ下には、アテネ人の柱廊として柱が3本立っているが、これは紀元前478年のペルシャ戦争のサラミスの海戦の勝利の際にペルシャからの戦利品を貢納したのだそうだ。

アテネ宝物庫ポリス宝物庫

そこから階段を上ると、ついにアポロン神殿である。山の斜面を整地して結構な規模を持つ神殿であり、内陣にはアポロンの神像がおかれ、その手前では、巫女が神託を宣じたのだという。いまは基礎と柱が数本しかないので、その様子を再現するのは困難であるが、ギリシャ世界からさまざまな重要な決定に際しての神託を行ったのがここか想像する。コスプレした巫女さんがいて、おみくじでも渡してくれたらな、と思うが、それは日本人的な感覚というべきなのだろうか。

アポロン神殿アポロン神殿

さらに上ると、古代劇場があり、眼下にはアポロン神殿を見下ろすように設けれている。エピダヴロス遺跡よりも若干小ぶりだが、構造は同じようであり、また山の斜面に作られているので爽快感は格別である。

デルフォイの劇場

デルフォイでは、オリンピアと同様に4年おきにピューテア祭が開催され運動競技会が行われており、劇場のさらに奥には競技場があるのである。その途中には、アポロン神殿へ向かう人が身を清めるカスタリアの泉がある。日本人の神社でのお清めと同じ感じなのだろうが、すでに時間は14時45分、劇場まで来たところで戻るしかない。劇場跡からのデルフォイを一望する景色は素晴らしい。山に囲まれたアポロン神殿、アテネ人の柱廊などが斜面に並び立っており、深い山々を遠景する。当時からもこのギリシャの風土はなんら変わっていないのだろう。

デルフォイ遺跡

<山に囲まれたデルフォイ遺跡>

急いで坂道を降り、来た道を引き返す、アポロン神殿で神託する巫女を想像しながらゲートを出る。博物館もよりたかったがすでに14時50分。そのままバス停に向かう。バスは15時ちょうどに出発する。

デルフォイの町は、山の斜面にへばりつており、上下2本の道脇にホテルやショップが並んでいる小さな町である。ここに宿泊するのがよかったのかもしれない。雰囲気はとてもいい感じだ。バスは、行きによった海辺の町イテオで乗換で10分ほど待ち、アンフィサに立ち寄る。なんともこの重複した時間がもったいなかった。

さらに、山岳地帯を1時間ほど進み、ラミア近くの東海岸にでる。このラミアに向かう山の出口のところがテルモピュレイである。紀元前478年、クセルクセス大王率いるペルシャの大軍をスパルタのレオニダス王が迎え撃ったところである。昔は、海と山に囲まれた戦略的要所であったのだが、いまは海岸線がひいており、テルモピュレイより東の海まで数キロは平地が広がっており、なかなか想像いがたいが、海に向かって標高数百めーとりの山がせりだしていることを考えると、そうなのかもしれないと思う。ヘロドトスは、ペルシャ軍170万人に対し、スパルタ軍は300人であったと。諸説あるようで、ペルシャは相当な大群で数十万はいただろうと、クセルクセスは大軍を見てレオニダスは降参するだろうと見込んで数日待つが降伏しないため、総攻撃を仕掛けるも数回撃退され、クセルクセスの息子2人も戦死するほどであった。しかし、テルモピュレイの間道を裏切者が教えて背後に回り、クセルクセスはレオニダスに投降を呼びかけ使者を出すが、レオニダスは、「来りて取れ」と追い返す。最後は、スパルタ軍は奮戦するも数で圧倒的に勝るペルシャ軍によって壊滅する。古来よりレオニダス王は英雄とした語られ、映画にもなっている。スパルタにレオニダスの銅像はたっていたが、ここにも立っておるそうである。なんて、実際は感傷的になる暇もなく、バスは淡々とラミアに向かっていく。

<テルモピュレイ付近>

バスは、ラミアのKTELバスターミナルで終点であり、16時20分頃に到着する。次は、トリカラ行きのバスに乗り換えである。予定では17時45分ということで1時間以上あるが寒いし、ターミナルは郊外なので1時間ほどカフェで時間つぶし。バスターミナルには、どこでもカフェが併設されており、お菓子屋パンも売られていて時間つぶしにはなる。ところがトリカラ行きのバスは全然来ず、どうもアテネからの便らしく、1時間ほど遅れて18時40分頃に到着。ここで2時間半近くまったことになる。真っ暗の中、バスはトリカラに向かうが、到着は20時40分頃になっってしまった。トリカラからカランバカへは40分くらいでhン発していると思っていいたが、この日は日曜日21時15分発は運休で、次は最終の23時発。なんと、ここでさらに、2時間以上待たなければならない。カフェで休むことにするが、22時には閉店してしまった。しかたなく、寒いロビーでさらに1時間待つ。23時のバスに乗り、カランバカについたのは、23時40分頃。もう店は閉まっているし、内陸のカランバカはアテネと比べると恐ろしく寒い。日本の東京並みかな、実際は。

ホテルにむかって5分ほど歩いて到着。HHotel Galaxyはシンプルであったが、暖かくて快適であった。朝食付きで40.5€。こんなときは、こじんまりした部屋のほうがよいんかもしれない。

 


ギリシャふらり旅⑤

2024-12-28 | 旅行

12月13日 今日は、ピルゴスからオリンピア遺跡を訪ねアテネに戻る。

ピルゴスからオリンピアへは、30分ほどであるが、バスと鉄道がある。ギリシャ国鉄は、このローカル区間を1日を平日と土曜に3往復している。発車時刻は、7時と9時、13時ころ、2両編成である。途中駅が3つほどあり、乗客は数名かな、観光客は一人もいなかった。ギリシャ国鉄は、かつてはペロポネソス半島にも鉄路が巡っていてコリントスからナブフリオなどまで通じていたようだが、いまは廃線となりコリントスからパトラへ向かう途中のキトスでであり、ペロポネソス半島の一番西のこの区間だけなぜ残して走っているのだろう。料金は、片道2€。乗車していると車掌さんがチケットを売ってくれる。

<ピルゴス駅>                    <列車の中>

9時5分発のガラガラの列車は、ピルゴスから内陸の山懐にある小さな町、およそ30分でオリンピア駅に到着。終着駅である。きれいなかわいい駅舎だ。オリンピアは人口1000人強の小さな町であるが、レストランやホテルなどがいくつか立ち並んでいる。朝9時半ということもあるのか、町中人気もないし、店も閉まっている。町中にアルキメデス博物館というのがあった。アルキメデスは紀元前3世紀にシチリアのシラクサで活躍した人物であるが、オリンピアに関係しているのかな。開いていないし通過しよう。

遺跡は、町を通り抜け一番端にある市役所の先の山の入り口って感じのところから入ることができる。入場料は、ここも冬季割引の6€。

ついに、オリンピック発祥の地、かつて紀元前776年から紀元393年までの1200年以上も続いた運動競技会の会場、聖地オリンピアにきたなと感じる。入り口を入ると、右側の川に近いほうにトラックのような運動場があり、ここで練習したのかなとか思う。

反対側の小高いほうには、迎賓館のような施設跡があったようだ。すこし進むと、直径10m強の円を描くように立っている石柱、フィリッポスの石柱(フィリペイオン)がある。3本だけ今も柱が立っている。マケドニア王で、紀元前338年、アテネ・テーベ連合軍をカイロネヤで破り、ギリシャに覇権を確立した王が記念とする神殿を献上したという。完成したのは、フィリッポス暗殺後に即位したあのアレクサンドロス大王のときだということだ。いまでもその往時をしのばせ、ここに立派な神殿を築き、マケドニア王としてギリシャに勢威を示したのだろう。さぞ、立派なものだったに相違ない。

<フィリッポスの石柱>

フィリペリオンフィリペイオン

その先、左側の高くなった基壇があり、柱跡や大理石が転がる。ここはゼウス神殿。オリンピアはゼウスに捧げられた聖地であるが、神殿が作られたのはローマ時代だったようだ。

右側には広大な施設跡があり、縦横100mはあろうというもの。小部屋に分けれた遺構がわかるが、ここはレオ二デオンという宿舎跡らしい。その真ん中にはプールがぐるりとめぐっている。さすがに流れるプールではないだろうが、くねっと蛇行しているし構造は流れるプールだ。

<宿舎とその内部のプール>

宿舎跡

さらにその先の川沿いには温浴施設があったようで、いわば露天風呂である。ローマ人は風呂好きだから。風呂の床にはモザイクが施されており、各国のアスリートたちは鍛錬と温浴といい環境だったのだろう。この辺りは、川の洪水で崩壊もしているとのことである。ゼウス神殿の横には大きな建物があり、いわば大会本部とでもいうような建物であるプレウテリオン評議会場が広がっている。

<浴場のモザイク>

風呂のモザイク床

その先の南西奥には、ローマ皇帝ネロの別荘が一部だけ建っている。中は崩壊しているのか見ることはできなかったが巨大な建物である。ネロは、オリンピアに赴き競技参加し、戦車競走で優勝し、月桂冠を授けられた皇帝である。自らの力を信じた自信家の皇帝であるから、他の参加者は勝てなかったのだろうか、それともネロの実力かなわからない。ローマ時代でオリンピックは引き続き続けられ、393年に分裂前最後の皇帝テオドシウスが廃止するまでとぎれることなくことなく続けられた。

<皇帝ネロの別荘>

 ネロの別荘

競技場へ向かう手前、ゼウス神殿の南には、2つの高い柱が立っており、そこには勝利の神ニケが翼を広げて立っていたようだ。紀元前400年代、スパルタに支配されいたメッセニアがスパルタに勝利した記念に寄贈されたとのことである。スパルタは強国で数百年隷属していたので、さぞうれしかったのだろう。ニケ像は資料館に展示されている。

<勝利の女神ニケの台座>                <ニケ像>

ニケの台座ニケ像

競技場に入る前、選手の入場ゲートとでもいうべきアーチ状の石組みがある。各ポリスで選ばれた選手たちは、このアーチをくぐり競技場へ入場したかと思うと、実際にここをくぐって大歓声が待ち受けたかと思うと、その歓声が聞こえてくるようでわくわくする。アーチの左側は、各国が寄贈した施設が並んでおり、ここでのオリンピックがギリシャ全土でいかに重要な祭典であったかが感じられる。

<ポリスの宝物庫>

各国の宝物庫

<選手入場ゲート>

入場ゲート

アーチをくぐり横2m位の入場門を通り過ぎると、競技場が目の前にどーんと広がる。真ん中にはまっすぐなトラック、左右には傾斜をつけた観客席が200mくらいの長さでひろがる。スタートラインは、横一線にの石板で作られている。スタートラインにつき、走ってみる。競技場の長さは192m、1スタディオンである。その時代に生まれたとしても、短距離早くないから絶対にここに立つことはできなかったのは間違いない。競技が行われていないとき、一般市民は同じような感想をもっただろうな、すげー。ここ気持ちいい、と。でも、当時、選手は、不正防止もあり肉体美ということもあり、全裸での競技だからね。女子は参加不可能。観客もだめ。古代ギリシャは男社会ですので。左右の客席に加えて、左側の傾斜を利用して観客席もあったらしく、収容人数は45000人という。その観客は、この遠いオリンピアにどうやってやってきてどうやって泊まったのだろうと古代の感覚はわからない。

<競技場>

競技場から入場ゲートをくぐり、神殿地区に戻る。ゲートからゼウス神殿の東側にはヘラ神殿がある。ヘラは、ゼウスの妻の女神である。嫉妬深く怖いイメージの女神ヘラに捧げられた神殿で、近代オリンピックの聖火が採火される。当時の巫女の衣装に身を包んだ女性たちが太陽光を集め聖火を灯す。東京オリンピックでもここで採火され、第2走者として日本最初のランナーとして、野口みずきさんが聖火を受け取ったのは記憶に新しい。なんか、その聖火を採火する神聖なここに本当にいるというのが不思議な気持ちになる。時代を超えて古代に通じるものを感じられる。

<ヘラ亜神殿>

ヘラ神殿

<ヘラ神殿のオリンピック聖火の採火場>

採火場

フィリッポスの神殿にもどり、遺跡をでて、考古資料館に向かう。考古資料館はあるいて5分ほどのところで少し離れているが、立派な資料館である。入場は遺跡と共通である。資料館内部には、ゼウス神殿を飾っていたファサードの浮彫や彫刻きれいに展示されいる。また、遺跡からの出土品、台座の上にたっていた勝利の女神ニケ像のほか、赤い陶器に黒く競技者が描かれたなど、往時をしのばせるものが多数展示されている。世界史の資料集とかで見るようなものがずらりとならんでいる。どれをとってもすごいのだが、同じように見えてしまうなあ。

<資料館の円盤投げや競技の図のある陶器>

円盤投げ

<ゼウス神殿側面の彫刻>

ゼウス神殿のレリーフ

<勝利者の月桂樹>

ゆっくりと見学していたらすでに12時30分である。列車の時刻が13時15分なので、駅に戻って列車を待つことに。朝と同じ列車で同じ車掌であり、乗客は地元の人3人くらい。2€を払いピルゴスへ戻った。

今日は、この後、アテネに行くだけなのでバスターミナルにいく。ピルゴスからにはアテネにはバスで行くしかない。1430発のバスチケットを買う。料金は30.3€、5000円である。結構な値段する。

それまで1時間近くあるので、近くのカフェでランチタイム。おっちゃんが串焼きを炭火で焼いているので、ここは、スブラキでしょう。10€かな、リーズナブルでおなか一杯になる。串焼きはうまい、トルコもうまいが、ここは豚があるのがよい。鶏や牛、羊もおいしいけれど。

バスに乗り込む。この便はトリポリではなく、半島を海岸沿いに北へ行き、その後、東にパトラのほうからコリントス方面へ向かう。バスは2時間ほどでペロポネソス半島の北岸に広がる海のコリントス湾にである。テッサロニキとつなぐ狭い海峡にパトラ近傍を走る。このあたり、レパントの海戦が行われたところである。1588年、スペインとベネチア、教皇軍を中心とするキリスト教神聖同盟軍がオスマントルコ海軍を撃破し、初めてオスマントルコの勢いを止めた海域である。もちろん、今も変わらず海はそこに広がっているが、この狭い海域に誘い込んでトルコ軍を混乱し壊滅させたのだ、と、世界史の重要な事柄が起きたところを走っている。でも、このバスの中でこんなことを考えている人はほかにはまずいないだろう。

<レパント海戦のあたりの海(コリントス湾)>

レパント

夕暮れ近くコリントス地峡を通過し、20時ころアテネのキフィウス・バスターミナルにつく。5時間かかった。51番のバスに乗り、オモニアで降りて、モナスティラキまで地下鉄で行き、荷物を受け取った。今夜は、オモニア近くにあるBoss Boutiqu Hotelに滞在する。朝食付きで8001円。ここはもう一泊、明後日にする予定である。オモニアの暗い道をがらがらとスーツケースをもっていくが特に問題はない。ホテルはきれいでとてもよい。やはり、フロントがあるのは良いなと思う。ホテルには着いたのは9時であり、外食するのも面倒なので、オモニア広場にあるカフェとパンのチェーン店、VENETHに行く。ここは、パンや軽食、デザートを中で食べらるし、お持ち帰りもできる。店内での食事は9時半で終了ということなので、サラダとデザート、カプチーノを頼む。量が大きくでかいのでこれで十分。しめて11.5€、リーズナブルだ。

 

 


ギリシャぶらり旅④

2024-12-27 | 旅行

12月12日 ギリシャ4日目

今日は、3泊したアパートNikis 20 Suite を離れ、バスでスパルタまでいき、オリンピアの手前ピルゴスまで行く。明日の夜には、またアテネに戻ってくるので荷物を預けることにする。コインロッカーのようなものはないが、荷物を預かってくれるBounceというサービスがあり、アプリで予約。バスが6時30分で、帰りが21時くらいなので、24時間受付のところを探す。すると、モナスティラキ広場の近くのホテルがヒットした。時差ボケが続いており、夜10時には寝てるので、4時ころ目が覚めた。なので、余裕で5時10分にシンタグマを出る。モナスティラキ広場まで15分くらい。場所は、Atene Safety Hotelで、なるほど24時間オープンのフロントがあるホテルがに有料預かりをしているのだ。支払いはアプリで行われ、1日4.5€、手数料3€で、2日で12€。便利かつリーズナブルである。フロントのおじさんとの受け渡しは簡単に終了。そして、バスターミナルに向かう。

アテネでは長距離バスは2つあり、どとらもオモニア広場から路線バスでいける。モナスティラキ広場からオモニアへは歩いても10分くらいだが、地下鉄で向かう。この地下鉄は1869年に開通した古いもので、モナスティラキモナスキ広場の駅は古代アゴラ遺跡があり、これをぶち壊して敷設されている。当時は、遺跡保護よりも近代化が優先だったのだろう。オモニア広場は、ガイドブックによると治安が悪いとか、麻薬中毒患者がふらついているとか、悪いことばかり書いてある。早朝、まだ暗いうちに歩くのは嫌だと思うが、実際行ってみると、明るい雰囲気はないが別に怖い感じはしない。ギリシャ経済危機のころはそうだったのかもしれないが今は普通に歩ける。

オモニア広場から数分のところにあるバス停で051番バスでキフィウス・ターミナル(ターミナルA)に向かう。15分くらい、地下鉄と合わせて1回分で乗車できる。アテネ市内の公共交通は、距離や回数でなくて時間制である。1回は1.2€で90分間は何度でも乗れる。券売機で購入して、切符にチップが組み込まれており、これを乗るとき(地下鉄は降りるときも)タッチする。すると、残り時間が表示されるのでわかりやすい。ちなみに、2回券、5回券、1日券などあり、空港は別区間とされる。なので、モナスティラキ広場から1回分でバスターミナルまで地下鉄とバスを利用してこれるのだ。

<早朝のオモニア広場近くの51番バス停付近>

バスターミナルは結構大きく、KTELというバス連合とでもいうべき発着場だ。しかし、これは地域ごとの会社であり、それぞれの会社が発券窓具とを開いている。スパルタへは、KTELオモニアでオンラインで予約できるのである。コピーを渡して発券してもらう。HPでは発車時刻は書いてあるのだが、到着時刻の記載はない。3時間くらいなのか4時間かかるのかわからない。また、スパルタからミストラのバスは時刻表はないし、スパルタから今夜の最終目的地ピルゴスへのどうやって行くのか、果たしてたどり着けるのか、現地に行かないと不明という未知の状態である。KTELのバスは、路線によっては毎日走っていないようだし、曜日によって変わるようだ。

とりあえず、朝一でスパルタに向かうことにする。バスターミナルでは、どこでもそうなのだが、カフェがあり、サンドウィッチやバケットサンドが売っているので、バケットを買って乗車する。朝6時30分発の便は、フェリーの乗客をピレトス港でピックアップし、ここからコリントスまで渋滞にはまった。途中のコリントス地峡で休憩はしっかりとって、ほぼ昨日のコースと同じ道を通り、ミケーネ遺跡を左側にあるなあと眺めつつ、アルカディアの中心地トリポリに9時過ぎに到着した。ここで15分くらい休憩して出発。アルカディアの岩稜地帯をスパルタへ向かう。アルカディアは牧神パンやニンフのいる理想郷として構成伝わるが、実際は、不毛な岩稜地帯で耕作に向かず、山羊などの放牧地帯であったためポリス間の争奪の対象にならず、牧神のいるののどかな土地といわれたようである。実際に、トリポリからスパルタまでの1時間は山や丘が連なった美しいのどかな美しい山稜地帯がずっと続くのである。理想郷とはこういうことを言うのか、と思うが、、やがて1時間ほどでスパルタへ、スパルタは数百メートルの山々に囲まれた緑豊かな小さな町であった。そのはずれのバスターミナルに10時30分頃到着する。さて、今日の予定をここで確かめなくてはならないが、KTELの発券所でピルゴスに行きたい、というが、わからんという。そして、他社のHPでトリポリ17時45分発のバスに乗りたいというと、15時15分発のチケットを発券してくれた。その先はトリポリで買えという。まあ、よくわからんが大丈夫だろう。次にミストラへのバスを尋ねると11時30分、帰りは14時30分であるという。これ一択である。ということは、スパルタには正味1時間弱しかない。レオニダスに会いに行かねば、と急ぐ。バスターミナルから古代スパルタ遺跡は、歩いて20分ほど。ぎりぎりの時間である。スパルタの町は小さく、ギリシャの田舎町、ここがかつてアテネとの覇権を争ったのかとは思えない。街の街路には、レオニダスの横顔をモチーフにしているものが街のあちこちにあり、英雄視されているのだな、とは感じられる。

スパルタ古代遺跡の近くに大きな武装したレオニダスの彫像が南東を向いてたっている。かっこいい。英雄である。銅像はテルモピュレイにもあるらしい。レオニダスの像はかっこいいのだけど、公園の真ん中とか、町の中心とかならいいのだけど、サッカー競技場のフェンスの前にポツンと。なんかな、重みがない感じ。サッカーは、今風の戦争なのかも。

<レオニダス王>

レオニダスの像を横目に、サッカー場脇を奥に向かうと5分ほどで古代スパルタ遺跡がある。遺跡は入場無料。かなり広範な遺跡ではあるが、スパルタの古代のアゴラ跡があり、石組みがわずかに残っている。ローマ時代の遺跡もちらほら。アテネの遺跡とくらべると、当時最強のポリスとして、市民たちが訓練に明け暮れ、自由闊達な議論を交わした質実剛健な強国スパルタ。それを感じさせる具体的な遺物はない。それがスパルタなのかもしれない。

<スパルタのアゴラ跡>

スパルタアゴラ

遺跡は小高い所にあり、東に西にまた北に山が見渡せ、豊かな緑に囲まれている。神殿跡が広がっている。紀元前4世紀の衰退期までここラコニアの地には一度も侵略されなかったスパルタ。その豊かさと強さ、この草ボーボーの地味な遺跡がスパルタを表しているようでもある。山並みは、当時となんら変わらないのだろう、いまは静かに草や土に埋もれているが、2500年前は活気と力と汗がほとばしる舞台だったことが風に乗って感じらるような気がする。飛鳥みたいなものかも、娘に報告するとそんな答えが返ってきた。確かに。

<スパルタの神殿跡>

スパルタ神殿跡

時間もないので、感傷に耽るのもそこそこにバスターミナルに急ぎ戻る。資料館が町中にあるのだが、寄っている時間がない。残念だ。やり残した。とすると、もう一度来なければならないのかもしれない。ここはよい。

急いでバスターミナルに戻り、11時30分発のミストラ行きのバスに乗る。途中、市内中心にある考古資料館前のバス停に停車した。どこを通るのかよくわからないが、それならば、資料館に15分くらい寄れたのに残念。バスは、スパルタの西に向かい、オリーブなどののどかな刃欠け道を通り、小さな集落で乗客はすべて下車し、乗客一人だけで山すその終点のミストラに15分ほどでつく。料金は片道2€。現金で払った。バスの案内とかはまったっくないが終点だし、運転手がミストラと教えてくれた。帰りのバスを運転手に尋ねるとやはり14時30分といっていたので、確かなのだろう。バスは、1軒しかないこぎれいなレストランの駐車場につき、ミストラまでは道路を10分ほど登っていく。

 ミストラ遺跡へは、車で行くと頂上近くまで上がれるようで、下から行く人はあまりいない。入場料は冬季割引の6€。見上げると、遺跡は3段階になっており、入り口から山の斜面に多数の教会や建物、それらを囲むレンガがめぐっており、中腹には王宮がでんと構え、教会も見える。標高差300mはある頂上には要塞のような城壁がめぐらしてあるのがわかる。山一帯が要塞都市のようになっており、その規模は写真とかでは表せないくらいだ。ここは、ビザンチン帝国の頃、12世紀ころから街がつくられ、交易で栄え、王が統治していたそうだ。往時には数千の住民が住んでいたようだ。街の入り口にはいると、すぐに修道院がある。いまは、このミストラ遺跡、一つ残っている女子修道院を除いて住民はいない。しかし、19世紀にオスマントルコ支配下のアルバニア兵によって破壊され、それ以降は無人になったらしい。それからまだ200年くらいの経過であり、当時の様子がよく残されている。

<ミストラの入り口から遺跡を臨む>

入り口に入ってすぐの一番下のエリアは、商店街や工房など庶民が暮らしていた区画、道路が残されている。町のあちこちにビザンチンの様式のギリシャ教会が多数建っている。

<下層の居住エリア>

特に、一番奥のオディギトリア教会に入る。エヴァンゲストリアス、アギオス・テオドロス教会と教会が町中に立っている。それぞれの内陣にはキリスト受難や聖人の生涯など、聖母マリアなどのイコンが全周を取り囲み、天井のドームにはイエスキリストが見下ろすという構図である、フレスコ画であるが、色彩もよく残されており、ギリシャ正教会らしい厳かな空間である。いまは教会として使われていないため、写真撮影を禁止されてはいない。遺跡のどこからでも眺められるが、教会はが斜面にそびえていることが多く、そこからスパルタを中心としたラコニア平原を見渡すことができ、絶景といえるだろう。ビザンチン帝国は、オスマントルコの圧力を感じ、この要塞都市を作ったのがわかる。

<オディギトリア教会の内陣>

さらに、上に登っていくと2段目の王宮エリア、王宮は大きな建物であるが、現在修復中なのか内部は見学できない。この周辺にも教会がいくつか建っており、この団の一番上はアギヤ・ソフィア教会というコンスタンチノープルと同じ名前の立派な教会が建っている。

<王宮>

<アギヤ・ソフィア教会>

その上に、一般の駐車場につながる入口があるが、そちらにいかず、頂上を目指しさらに上っていく。頂上には、堅固な城壁をめぐらした要塞がそびえており、その城壁から下を眺望すると、結構な高度感がある。オスマントルコの勢力拡大に備えたのだろう。堅固な要塞である。

<最上層の要塞>

ミストラ入り口までは300m、スパルタまでは400mはあるだろう。晴れてさわやかに見渡せる。また、地域一帯を広く見渡すことができ、古代からの歴史の舞台、スパルタ地域が一望できる。ここまで1時間を要した。バスの時間までの2時間半は時間を持て余すかと思ったが、教会の内陣でたたずみ、眺望に感じ入り、のんびりと坂道を登ればこれくらいはかかるものだろう。

<要塞からスパルタを臨む>

さて、要塞でのひと時を楽しんだのち、唯一の住民であるバンタナサ女子修道院に向かう。修道院の手前で、猫を3匹連れているシスターにあう。まわりにはこぎれいな花が咲いており、レンガと緑の中に、猫がふらふら歩いているのんびりとした優しい空間だ。数百年変わらぬ光景のかな。修道院の周辺や内部は、きれいにされており、また10人ほど住んでいるというシスターの宿舎に洗濯物が干してあったりと、生活臭がするのでなんとなくホッとできる空間である。内陣にはいってみた。ほかの遺跡とは違い、イコンは美しく磨かれ、花に囲まれ香りのただよう落ち着きがある。内陣は、信仰の対象であり写真撮影は禁止であるのはいうまでもない。

<バンタナサ女子修道院>

さらに、フレスコ画が美しいというぺリヴレプトス修道院跡は工事中でいくことはできず、遺跡の入り口にあるショップをのぞく。お土産物はほとんどなく、商売っ気がないのか訪れる人が少ないのか、英語版の解説本をかっておいた。

バス停に戻るが、バスの発車まで30分以上あるので、バス停横のきれいなカフェレストランに立ち寄る。まだ2時だけど、寒くなるから外のテラス席は片づけられたので、中のテーブルに座る。朝、バスの中でバケットサンドを食べてだけだが、時間もないので、レアチーズケーキとカプチーノを注文。ケーキのでかいことと言ったら、、、。日本の2個分くらいはあり、濃厚なケーキをいただいた。まあ、おいしい。あわせて12€。こんなもんかな。

バスの時間が近づいたのでバスを降りたところで待つが、なかなか来ない。15時15分発のバスでトリポリに行くので焦るが、15分遅れで14時45分頃に到着。料金はやはり2€、15分でバスターミナルに戻った。

トリポリ行きのバスは、アテネ行きのバスであり、途中で降車可能なのだろう。料金は5€。来た道と同じのどかな山道をへてアルカディアの中心地トリポリにつく。トリポリのKTELバスターミナルでピルゴス行きのチケットを15.5€で買う。出発は17時45分発の予定。16時20分頃についたから1時間半は待つことになる。ピルゴス行きのバスは、アテネから来るのでなかなか来ない。心配そうに強いると、チケット売り場のお兄さんがバスが来るたびにバスを見に行ってあれではないと教えてくれる。ようやく1時間遅れで18時45分頃に到着。お兄さんがあれだと教えてくれた。アテネとピルゴスの間は、一日に数本出ているがトリポリ経由は朝と夕方の2本だけ。結局、このバスステーションに2時間半も待っていたことになった。カフェもあるのでよいとはいうものの、寒い寒い。バスはトリポリから西へ向かい海辺に出る。その間、ほとんど集落の明かりは見られない。この辺りは昔も今も変わらずの相当な岩稜の広がる田舎なのだろう。アルカディアだし。

海岸沿いを北上し、ピルゴスには21時過ぎに到着。なんとかたどり着いたという感じ。ピルゴスのバスターミナルは、市街地にあるが、もう遅い時間なのでレストランに入るのもおなかに悪そうなので、ローカルカフェでギロをテイクアウトだな。ギロはうまい、炭焼きの肉にポテト、トマト玉ねぎなどいれてピタパンで包むファーストフード4€くらいかな。ピルゴス駅前でギロを求めに入ると、店のおじさんがいて、どこから?と聞かれ、日本と答えると、日本は良い、京都が、云々と、ごきげん。顔は彫刻のようで鼻が高くあごひげはやして体格いいから、なんか怖いのだけど、結構、親切でやさしい。ギリシャ人は笑顔がないからか、東洋人と比べてそっけない印象を受けるが実際は優しかったりする。おじさん、気にいってくれたのか、初見の登用の旅人にギロをおごってもらった。さんきゅ、とハグしてホテルに向かう。

<ピルゴスのギロ>

ホテルは、バスターミナルから5分くらいのギリシャ国鉄駅前のHotel Marilyに宿をとった。素泊まりで41€。こじんまりした家庭的なホテルで一晩寝るには十分である。暖房の音が激しくて最終的には切らざるを得ないくらいだった。

 

 


ギリシャふらり旅③ 

2024-12-23 | 旅行

12月12日 今日は、ペロポネソス半島への現地ツアーに参加。

ペロポネソス半島は、アテネからは100キロ以上離れており、かなり地方度が高く、半島全体で人口も150万くらい。交通の便が悪いため、効率的に回るべく現地ツアーに参加。ミケーネ、ナブフリオ、エビダウロスを一日かけて回るもので、50€。すごく効率的である。これ以降は現地バスを使ってまわってみた経験からすると、ギリシャをうまく回るには現地ツアーバスで選ぶのがよいと感じる。

シンタグマ広場を8時20分に出発して、まずは最初の目的地、コリントス運河へむけてバスは走る。ピレウス港からは一昨日のアポロン海岸とは逆に、北上しそのまま西進する。しばらく進むと左側にサラミス湾、サラミス島が見えてくる。紀元前480年、テミストクレスに率いられたアテネ市民はアテネを捨てサラミス等に避難し、アテネを中心としたギリシャ海軍がサラミス湾に集結し、狭い湾内にペルシャ海軍を引き寄せ、市民で構成するギリシャ艦隊は小回りが利くので、奴隷を漕ぎ手とする大きくて小回りの利かないペルシャ海軍を包囲し、壊滅的な打撃を与えた。いわゆるサラミスの海戦である。ペルシャ王のクセルクセスはこの敗戦によりその年の制圧をあきらめ、ペルシャに戻った。ギリシャペルシャの戦況を一変させた世紀の海戦のまさに舞台が目の前に広がっている。いまは、きもちよく高速道路で通り過ぎてしまうが、当時のことに思いをはせることができた。

<サラミス島とサラミス湾>

1時間ほどでコリントス地峡につく。コリントス地峡、イストモス(地峡)は、ペロポネソス半島の付け根にあって、ギリシャ本土との間を7キロ距離の陸地であったのを、19世紀に末掘削してイオニア海とアドリア海につながるコリントス湾をつないだもの。三大運河とガイドは言っていた。スエズ、パナマ、コリントスだそうだ。古代のコリントスはこの中継地としてペロポネソス半島側で栄えたが、さすがに運河は作れなかったようで、当時は陸路で運んでいたという。高さは80m幅23mあり、垂直に堀り込んだのが橋の上からよく見える。いまは、バンジージャンプの名所となっているようで、勇気があれば体験できるのかも。ちょっと無理だな。ペルシャ戦争時、クセルクセスの率いるペルシャの大軍が進行してきたとき、どこで防衛線を張るかの議論をした時、イストモスに引くべきとの意見を抑え、アテネの意見に従い、スパルタ王のレオニダスが300人のスパルタ兵を率いてテルモピレイに出撃する。そんなことも思い起こさせる。

<コリントス地峡>

コリントス運河

コリントス地峡で休憩の後、バスはペロポネソス半島へはいる。風景は岩山とオリーブやオレンジの灌木畑以外は、荒れた岩場が続く。古代もこんな風景だったのだろうか、よく見ると、たまには岩場に石垣とか見えるので、かつては農地だったのかもしれない。しかし、ギリシャは、紀元前7世紀頃に記述した「労働と日々」という農業書には禿山になっており痩せているようなことが期されていたような。そのころからはげ山は問題だったのかも。痩せた豊かでない土地であることは日本の農村風景とかと比べれば一目瞭然かも。しかし、降水量が少なく灌漑が必要な乾燥地域で文明は発展しているので、だからこそ文明がここに築かれたのかもしれない。と娘が言っていた。その通りだな。

バスで1時間くらい進んだかな、高速を離れ、山に向かって進んでいく。標高は200mくらいの丘の斜面にミケーネ遺跡が山を背景にした丘の上に広がっていた。こんなところにか、というような場所である。

遺跡の最も近い集落(といっても50軒くらいだろうか)のところにローカルバスは停まるようだが、そこからさらに山を登って車で15分くらいのところに遺跡はある。駐車場から遺跡が見えて、丘を包むように城壁がありその上に石組みが見渡せる。山を背景にその懐の丘の上全体がミケーネ城というべきか。駐車場わきにカフェがあるほかは何もない。

入場料は冬季半額の6€。天気も良く東京よりも暖かいギリシャはこの季節がよいと感じる。遺跡に向かい歩いて城壁にいきつき、城壁沿いにいくと有名な獅子門、ミケーネの象徴だ。門の上には顔は失われたが2頭の獅子が向き合い出迎える。3500年前の遺跡だが状態はとてもよく、往時をしのばせてくれる。しっかりした石組みであり、石の重さを程よく分散しておりその技術の高さがうかがえる。

<ミケーネ全景>

ミケーネ全景

<獅子門>

獅子門

門をくぐると、すぐに円形の遺跡。ここは王の墓と呼ばれる王家の集団墓の跡である。シュリーマンがあげ「アガメムノンのマスク」と名付けた有名な黄金の仮面が出土したところである。現物は、アテネの考古学博物館に所蔵されているという。アガメムノンは。ホメロスのイーリアスにでてくるトロイ戦争のギリシャ側の総大将である。しかし、アガメムノンがいたと考えられる紀元前12世紀よりも古い時代のものだそうだ。しかし、シュリーマンの情熱とロマン、見つけた時の興奮は尋常でないだろう。アガメムノンのマスクとして考えるのは素敵なことだ。直径は10m以上はある大きなもので、王宮に向かう城内の一等地に王墓があるというのは珍しい。当時のミケーネ人の死生観なのだろうか。

<王墓>

王墓

ミケーネは、神話では、英雄ペルセウスが開いた国である。ペルセウスは、ミケーネの南10キロくらいのアルゴスの王女とゼウスの子。成長して、兄に見た人を石に変えてシまうという魔女ゴルゴン姉妹、メドゥーサを討伐を命じれ、神々の与えた盾を手にし討伐に成功する。今度は、その頭を持って、巨人アトラスを石に変えてあげて苦行から解放しアトラスは山となりアトラス山脈とした、さらにはエチオピアにわたり王ケフェウスと王妃カシオペアの娘である王女アンドロメダをメドゥーサの頭を使ってお化けクジラから救出する。そして、ようやくアルゴスに帰り、ミケーネで王国を開いたという話である。相当端折ったがこの英雄譚は、どれも星座にもなっているし面白いが、省略しよう。そのペルセウスから数代後の王がアガメムノンである。とすると、アガメムノンのマスクとするよりペルセウスのマスクのほうが近いのかもしれないなあ。

さらに王墓から急坂を登っていくと頂上にでる。正面の城門跡があり、王宮跡が広がっている。王宮のこの地区は、360度の眺望があり、北から西にかけては緩やかな丘をなす陸地が広がり、南には遠く20キロほど先の海を臨むことができる。この丘から豊かであったで陸地を、そしてエーゲ海を行きかう交易船でにぎわう風景が広がり、ミケーネの繁栄の姿が想起される。いまはすっかり田舎だが、それがかえって当時を容易に想像できるのはとても楽しい。

<王宮跡>

王宮跡

王宮はいまや石垣しかのこっていないが、クノッソスに近いような構造に感じる。クノッソスには城壁がないが、ミケーネは丘を巡る周囲をしっかりした城壁が取り囲んであり、ギリシャ本土での戦争は絶えなかったのだろう。王宮の裏手には、井戸があり、この丘の上の乾いた土地であるが、水は自給できたようだ。大きな井戸のほか、階段を下っていった裏井戸のようなものも今も残されている。獅子門とは反対側の山側には裏門があり、簡素であるがしっかりした石を据え付けた実用的な門が残っている。3500年前と思うとすごいものだ。遺跡に併設して考古博物館が併設されている。主要な遺物はアテネにあるが、そのレプリカや豪華な工芸品や赤と黒で彩色された土器などの出土品や、線文字B記録された粘土板が展示されており、ミケーネ文化の豊かさを思うことができる。クノッソスとは平和的で牧歌的な穏やかな雰囲気とは異なり、馬とか兵士とかが絵柄には多く見られ、勇壮な好戦的なこの文明の性格を表しているのだろう。

<裏門>

裏門

宮殿跡から少し離れたところに、アガメムノンの倉庫がある。入場券はミケーネ宮殿と共通である。山をくりぬき、石垣でくみ上げた入口にむけ羨道を進む。巨大な空間が広がっている。その入り口の石組みは、三角形をうまく配置してあり羨道から入り口、門まで、重量をコントロールする設計である。いまはただの石組みがあるだけだが、復元をみるとこの参道や入口は彩色され美しいものだったようだ。中は巨大なドーム状の空間が広がり、奥にはもう一つ部屋があり、その奥部屋は王の墓として使われていたらしい。たしかに、豪華な入口と広い空間、アガメムノンの倉庫と名付けられているように、紀元前14から12世紀ころまでミケーネ文明後期の中心であるここにはミケーネの繁栄を支える多数の豪華なものが収納されていたのだろうか。

<アガメムノンの倉庫>

次に向かったのは、独立ギリシャ最初の首都であったナブフリオである。1821年から始まるオスマントルコの支配から独立運動がおこり、紆余曲折あるが、1830年に独立が承認され、初代大統領カポディストリアスがここナブフリオを首都に定めた記念すべき地である。その記念碑が港に建てられている。オスマントルコ以前は、第4次十字軍以降はベネチアが支配しており、港にはベネチアの要塞、海辺、そして街を見下ろす山上には立派な要塞が今もそびえている。ベネチアの支配が終了したのはクレタと同じく17世紀末、クレタと異なり駐屯兵も少なく堅固な要塞はあるものの、大した抵抗もなくベネチアは撤退した。さて、初代大統領カポディストリアスは派閥対立もあり翌年にナブフリオで暗殺された。列強は王国として国王をバイエルンから送り込み、翌1832年にはアテネを首都に移された。わずかの期間の首都であるが、最初の首都としての誇りがあるようだ。

<ナブフリオンのベネチア要塞>

ナブフリオに向かう途中、手前10キロくらいのところに、ミケーネ時代の中心都市のひとつティリンスの遺跡を通過した。立ち寄らなかったが高さ10mくらいの丘を城壁でめぐらした都市であったようだ。ティリンスもミケーネも、紀元前にドーリア人の侵略により滅ぼされ、その後復興することがないので、立派な城壁が残されており、ミケーネ時代の遺構があるようだ。

<ティリンス遺跡>

ティリンスの遺物は、ナブフリオ市内にある考古学博物館に収められている。2階部分の小さな施設である。入場料は3€。主なものとしては、ティリンスで出土した青銅の甲冑が一そろい展示している。兜はイノシシの牙で飾られており、一つの兜で40頭分あるという。猪の勇猛をうけつぐ戦士の意気込みを表すものなのだろう。こうした武具からも好戦的な海洋民族の姿が感じられる。

<ナブフリオ考古博物館 ティリンスの甲冑と陶器>

ティリンスの甲冑

14時を過ぎ、ようやく昼食タイムである。海辺なのでここは海鮮だろう。港沿いにレストランが軒を連ね、それぞれが海に向かってテラス席を設けており、いい感じである。冬なんでちょっとリゾート感はかけるが、暖かい季節はさぞにぎわうことだろう。

レストランにはいり、今度はタコのグリルを注文。前菜によくわからないパスタを注文してみた。タコは、オリーブオイルでグリルしており付け合わせもあり足一本だが満足である。前菜であるはずのパスタは、チーズたっぷりでゆうに一人前はあるので、おなか一杯になってしまった。ギリシャは両多いので要注意だ。全部で30€くらいかな。アテネより安価である。地中海をながめ海鮮に舌鼓、ベネチア時代の街並みが残る南欧の穏やかな昼下がり、ほんの一時間ほどだけど、たっぷりとその情緒を体得した感じだ。

<タコのグリル>

次は、エピダヴロス遺跡である。ナブフリオからバスで2時間ほど、16時ころに到着。17時に閉館であるので正味一時間であり、入場料はここも冬季割引の6€。エピダヴロスは、古代ギリシャの療養施設が完備されたところで、最盛時には3,000人もの病人が療養していたという。有名なのは、古代劇場であるエピダヴロス劇場であり、いまもここで演劇やコンサートが開かれるのだそうだ。しかし、施設は、広範に散らばっており、劇場のほか、音楽堂、末期患者の療養施設、入浴移設、運動競技場もあり外科手術や麻酔による治療も行われ、エジプト神殿などの神殿も多数存在していたようだ。

まず、原形をとどめ今も使用されているエピダウロス劇場にいく。劇場の中心にはオルケストラと呼ぶ円形の舞台があり、客席が結構な傾斜で半円状に美しく広がっている。音響効果が素晴らしく、100mくらい離れ30m位高い最上段の客席でも音声が同じように聞こえるらしい。実際に、劇場の中心に立ち、客席をのぞむと古代ギリシャ悲劇がここで上演されているかと思うとその熱気は容易に想像できる。最上段まで上り椅子に座って舞台を眺めてもよく見えるし、実際、中央の舞台で普通に話す人の声が明瞭に聞こえた。古代の建築技術は計算された美しさと機能はを備えたものであると実感できた。

<エピダヴロス劇場>

エピダブロス劇場

ここにも考古資料館が併設されており、エピダウロスで出土したファサードの彫刻やレリーフが展示されており、写実性の優れたギリシャ彫刻を感じることができる。

<エピダヴロス資料館>

博物館

さらに数百メートル離れたところには、巨大な療養施設の遺構が広がっている。その横には、音楽堂のホールの遺構がある。当時、健康な身体と精神は強く関連しているとされ、音楽や演劇など芸術の鑑賞は治療の一環だったということだ。

<療養所>

療養施設

ここエピダウロスは、ギリシャ神話のアポロンの子である名医アスクレピオスが祀られている。アスクレピオスは医術の守護神であり、その蛇の巻き付いた杖は「アスクレピオスの杖」として医学の象徴となっている。彼の生誕にはカラスが黒くなったいわれがあるがそれはおいといて、アスクレピオスは蘇生術を行うことができ、人間を死なせなくしたため、冥王ハディスは死すものがおらず、秩序を乱すとしてゼウスに抗議し、ゼウスはこれを受け入れ彼を殺したという。でも、その功績を認められ、へびつかい座に昇天した神である。

<アスクレピオス神殿>

アスクレピオス神殿

その北側には、大きな治療処置室があり、ここでは医者に見放された患者がやってきて、麻酔をされて幻覚をみさせるという治療が行われたのだという。幻覚療法とでもいうものか、末期患者を安心させ穏やかにすることだったらしい。また、エジプトのイシスを祀る大きな神殿もあり、オシリスの再生を行った神として尊重されたのだろう。さらには、温浴施設もと整えてあり、運動施設や競技場もあり、心身のバランスの取れた健康のための施設が整備されて多様である。健康とはどういうものか、と古代人の認識は正しいなあと思う。しかし、場所はペロポネソス半島の山中にあり、ギリシャ各地から交通機関のない時代、はるばるとやってきたのかな、と思うとさぞ権威のある荘厳なところだったのだろうと思う。

<治療処置室など>

治療室

5時に日没であり、薄暮のなかアテネに向かって帰路につく。ペロポネソス半島の東海岸をコリントスに向け北上するが、コリントスまでずっと山道で1時間くらい、民家もほとんどなく、昔も今もほとんど変わらぬ風景だろうと思うが、当時はコリントスからエピダウロスまで何日かかったかのだろうか。

途中サービスエリアで休憩し、8時ころにアテネのシンタグマ広場で解散。広場は、クリスマスツリーやイルミネーションがきらめき、市民はわいわいと楽しそう。

<シンタグマ広場、無名戦士の墓>

シンタグマから人の流れにまかせ、ブティックが連なる繁華街をモナスティラキ広場まで15分ほどクリスマス気分を味わい散策する。モナスティラキ広場は、中心に小さなビザンチン教会があり中に入ってみた。イコンが壁一面に描かれ、ドームにはキリストが見守り、厳かな内陣であった。広場からは、テラスでカフェでにぎわい雑踏で人々が行きかう上に、アクロポリスの丘が眺望でき、ライトアップされたパルテノン神殿が白く浮かび上がっていた。美しい。2500年前もにアテネの賑わいを見つめていたのだろうな、と人ごみの中で見とれてしまう。ナブフリオでの3時ころ昼食がいに重かったので、カフェでジェラートを夕食に。テラスでのんびりアテネの夜を味わい、ホテルに戻った。

<モナスティラキ広場からパルテノン神殿>

<ジェラート>

 

 


ギリシャふらり旅②

2024-12-23 | 旅行

12月11日、ギリシャ2日目

今日は、クレタ島への日帰り旅行である。ギリシャは日本の三分の一の面積だが島がたくさんあり、航空機で往来するのが普通である。夏場の観光シーズンはミコノス島やクレタ島、サントリーニ島など、高速艇やフェリーが頻発しており選択肢は多いが、冬場は地中海も海もあれるというし、便数は激減するため、エーゲ航空での往復を選択。クレタの中心都市、イラクリオンまではアテネから50分、エーゲ海の島々を眼下に見ながらのフライト、窓際席を3€で追加して予約。テンション上がる。8時5分のフライトなので、シンタグマ広場を5時50分にバス乗る。

空港までのバスは、10~20分おきくらいに24時間運行しており、朝なので50分くらいで空港に到着。とても便利である。国内線は、Bターミナルでオンラインチェックインしていればバーコードで入場し、保安検査を受けてターミナルに向かう。朝から結構な人がおり、ターミナルのカフェはおおいにぎわう。コーヒーとバケットにハムとか挟んだものとで6€くらいだったような。いずれにしても、まあリーズナブルな感じ。ギリシャ人はコーヒー好きで、どこに行ってもカフェスタンドでコーヒー飲んであり、2,3€くらいでこれはよい。

アテネ空港を飛び立つと、右手にマラトンあたりを目にすることができる。紀元前490年、アテネは、プラタイヤ以外のポリスが参加しない孤軍で、マラトンでアテネの前僭主ヒッピアスに先導され、ダイオレス大王が派遣した海岸に上陸したペルシャ軍を迎え撃つ。重装歩兵の機動力と統率力により、ペルシャ軍を包囲殲滅し歴史的大勝利をえたところだ。ここからアテネまでの40キロを兵士が走り抜き勝利を伝達したという故事に倣って1896年の第1回のアテネ近代オリンピックでマラソン競技がはじめられたのは有名な話である。今回はマラトンを訪れることはできなかったが、遠望できたのはよい。(古戦場は写真のもうちょっと北だと思う)

<マラトン海岸付近>

エーゲ海の島 名前は何だろう

エーゲ航空のフライトアテンダントさんに彫刻のような美女がいた。ミロのビーナスやアフロディーテのよう、実際にいるのだなあ、ああいう人。彫刻のようなおじさん、ソクラテスのような人も何度も見かけたが、ビーナスはその後ほとんどみかけない。やはり後世に残るのは特別な存在なんだろうなと現実に感じる。

フライト時間は35分でイラクリオン空港へ到着。かなり設備は古くて暗い感じの空港。ギリシャ全体に言えるが、公共インフラの更新はかなり遅れている感じ。ギリシャのリーマン後の経済危機は国家が破産するというようなことが起きた記憶があるが、その影響はまだまだ残っているのかも。

<イラクリオン空港>

イラクリオン空港は、市内までバスで15分。バス乗り場でチケットを買って、どのバスに乗ればいいんだと売り場のおばちゃんにきくと、あれだあれだと指さして教えてくれる。ギリシャ人、笑顔というものに出会うことはない。愛想が悪いのか、東洋人として見ているのかというのか、と思ったが、どこへいってもそうで、結構、丁寧に対応してくれるし、とっつきにくい感じはあるが親切な人という感じだ。表情変わらないし、ぶっきらぼうな印象を受けるが、これは国民性かな。アジア人のスマイルは、特に日本時の笑いは、彼らから見るとう気味悪いかも。

バスは市内まで1.2€。イラクリオンの中心地でおりて、クノッソス行きのバスに乗り換えるのだが、チケット売り場がない。よくわからないが自動販売機があり、どうも青ラインでクノッソスには行けるようで、1.8€でチケットを購入。クノッソス行きと表示されいるバスに乗り込み、30分くらいで終点。クノッソスまで乗ったのは私だけ、バス降りたところには土産物屋があるが全部しまっている。この時期はシーズンオフなんだ。でも南だけあって晴れているので、コートはいらないくらい。東京の11月くらいな感じだろうか。

ついに来た、クノッソス宮殿。ミノス王、ラビリンスとミノタウロス、英雄テシウス、線文字Bのシャンポリオンに発掘者のエバンス。なんかあこがれていた。興味を持ってから50年近くたってようやくこれたこれた。遺跡の料金は半額の6€。入口の手前にガイドブースがあったが、何か国語も対応しているようだが、日本語はいないようだ。

遺跡は、イラクリオンから内陸に10キロくらい入ったなだらかな丘にある。エバンスが発掘して神話にある迷宮のような宮殿、豊かな表情を持つフレスコ画、謎の線文字など、ミステリーとロマンに満ち溢れている。遺跡は、エバンスが発掘し、彼は遺跡の保存にとどまらず、一部の復元を行っている。このため、フレスコ画が残っていたような場所や王宮など、彼の想像力を働かせた部分は、壁や柱、フレスコ画が一部復元されている。当時の材料を使っていないとか、現在的に言うと適切でない方法もあるようだが、当時の様子がなんとな立体としてあるというのは無理がなくてよい。

王宮跡には、壁画が復元されており、3人のクレタは美女、2頭のイルカの泳ぐ姿、王子や牛など、平和的な牧歌的な雰囲気である。クレタ文明は、紀元前の19世紀くらいからの16世紀までの第1期があり、一度、炎上した後に再建されたらしい。そして、紀元前16世紀の再建後、最大の繁栄期を迎え、東地中海をエジプト、メソポタミア、フェニキアとかの交易拠点として栄えたようだ。クレタでは、貢納王政であり、豊かな土地からあがる貢納や交易の記録上、文字が発明されて行政文書に使用されていたという。クノッソス神殿は、城壁を持っておらず、平和的な安定した国であったようだ。

<王宮跡>                  <復元部分>

<王宮のタコの絵(復元)>

伝説では、ゼウスがフェニキアのチュロス王女エウロペを見初めて牡牛に変身して背中に乗せて連れ去ったところがクレタ島である。クレタ島は、エウロペ、それはヨーロッパの語源であるが、クレタがヨーロッパの原点ということになるだろうか。その二人から生まれたのがミノス王であり、クノッソス宮殿を立て、繁栄を極めたとされる。ミノス王は、ポセイドンに捧げる牡牛を請うが、あまりの美しさに生贄にはもったいなくなり、別の牡牛をささげたのをポセイドンは怒り、妻が牡牛に恋するようした。妻は張りぼての牡牛を作らせ、その中で妊娠する。そこで生まれたのがミノタウルス、頭は牛で体が人間の怪獣であったので、ミノス王は宮殿の奥深く入ったら出てこられない迷宮ラビリンスにミノタウロスを閉じ込めた。ミノタウロスは横暴な化け物であり、男女7人を生贄に捧げることとなっており、アテネにその順番が回った。アテネの王子テセウスは自ら乗り込んでいく。クレタの王女アリアドネはテセウスに恋し、短剣と赤い糸をわたし、テセウスは迷宮内でミノタウルスを成敗し、赤い糸を手繰ってラビリンスを脱出する。簡単に言うとこんな神話、テセウスの後日譚の悲劇もあるが、それはそれぞれ味わっていただきたい。

<クノッソス宮殿の模型>            <王座の復元>

クレタは、この神話のように紀元前14世紀、ミケーネを中心とするギリシャ本土の制圧によりクノッソス宮殿は炎上してしまう。その火災の痕跡は遺跡に残っており、また、その際、記録簿も一緒に埋没したため、大量の線文字の文書が残ったという。その後、ミケーネ時代に若干の復興はあったものの、繁栄を取り戻すことなく、地中に埋もれたということだ。この神話を手掛かりに20世紀初頭、英国人のエバンスが発掘した。線文字Bはさらに50年後にヴェントリスが解読に成功した。それは、古ギリシャ語であり、文明の担い手がギリシャ人であることが判明した。線文字Bはミケーネでも使用されたが、ギリシャでは文字は消滅し、アルファベットの発明まで数百年を暗黒時代となる。

こんなことを思い出したり、ひたっていると、いつの間にか1時間くらいが経過してしまう。王宮は、傾斜地に建てられ、4階建てであったらしい。王妃のテラスは3面が開放された明るい空間であり、さぞかし豊かな文化的な生活がくり広げられていたであろうと思う。

<王妃のテラス>

遺跡には、発掘した遺物が保管されている資料館が併設されている。フレスコ画などの一部のものはイラクリオンの博物館に展示されているが、発掘された土器や青銅器が展示されおり、昔をしのぶことができる。

さてバスで市内に戻ることに、バスの乗客はまたも一人、チケット売り場がないのでvisaデビットでタッチ乗車。2.5€、チケットを買った場合とそうでないと値段が違うのかな。まあ、400円くらいなので良しとしましょう。

市内のバス停でおりて海辺の要塞へと向かう途中、お昼ごはん。せっかくクレタに来たのでここは海鮮のグリルを食べようときれいそうなお店に入る。この店、海辺に建っており、ベネチア要塞が一望でき、ギリシャらしくテラス席に着席。ガイドブックにも載っているVenetoというお店だけど、誰もいないという不思議。最高の空間を独り占め。さて、注文は、クレタサラダとイカのグリル、ギリシャコーヒー。クレタサラダとは何者だろうかと思うと、たくさんのトマトの上に、たぶんヤギのチーズ、とクラッカーのようなパンを主体にオリーブオイルベースのドレッシング。これでもかとトマトが入っている。健康的。タコとイカと迷うが、今回はカラマリという名のイカのグリルに。余裕があったらタコのリゾットを追加だな、と思う。タコは西洋人は悪魔であるとして食べないものと思っていたが、クレタではタコは古代クノッソス土器の壺の図案にタコがたくさん使われており、昔から生活に密着した食べ物として伝わっているのだろう。イカのグリル、オリーブオイルとハーブで味付けてあり2はいあった。けっこううまいぞ。醤油もいいけど、これはいける。日本人好みの味付けだな。こういうイカやタコを好んで食べるなんて日本人と同じだと思う。ギリシャコーヒーは、細かい粉にお湯を注いだもので、サーブされたときは粉が浮いている。粉が沈むのを待って上澄みを静かに飲む。ベトナムコーヒーと同じだが甘くはない。濃厚な味である。

海辺に建つベネチア要塞は、歴史を語る建物である。食後にここまで歩いて向かう。港の入り口にそびえる要塞で、要塞の入り口には有翼金獅子、ベネチアの象徴が門の前面に掲げられている。中世の地中海を巡る攻防の舞台であることを思い起こされる。

<要塞の入り口の金獅子>          <カンディオの絵図>

要塞は、港を守るように、大砲が360度配置され、弾薬庫や兵士の待機室など、当時のままの姿が残されている。要塞から街をみると、あつこちに海に向かってアーチのついたレンガつくりの建物が海に面している。当時、造船のドックに使用されていたのだろう。当時、イラクリオンはカンディオと呼ばれ、1204年の第4回十字軍以降、ベネチアが領有し、東地中海の拠点として繁栄していたが、オスマントルコが興隆し、地中海の覇権を争い続けた。オスマントルコがキプロス、ロードスに続き、クレタに17世紀侵攻する。カンディアは、要塞としてとして整備され、1689年までの21年間、オスマントルコの包囲され続け、これに対抗し続けたそうだ。その最前線がこのベネチア要塞、ロッカ・ア・マーレともいうらしいが、堅固な守りと五稜郭のような陸上要塞で防衛されていたそうだ。港はドックや倉庫が整備され、要塞を支えてそうだ。1689年、オスマントルコの猛攻にフランスのルイ14世は軍隊を派遣するも要塞は陥落し、ベネチアが撤退する。その後、オスマントルコの支配が続き、ギリシャの独立後もオスマントルコの支配が続き、1898年クレタ蜂起を契機にギリシャ王国が攻めるものの、オスマントルコに敗れ、住民数万人が虐殺されたらしい。その後、オスマントルコを抑えるべく列強の介入でオスマントルコは戦争には型物の、クレタをギリシャ領とせざるをえなくなり、ようやくギリシャに復帰したという歴史があり、ほんの百数十年前のことであるあが、いまは平和な穏やかな島である。3500年前は、最先端の文化地域だっただろうが、この海と太陽は変わっていないのだろうな。

<ベネチア要塞>

次に、イラクリオン考古博物館を訪れる。ここも半額の5€。クレタ島内での古代資料は、アテネではなくここに保管展示されているので、クレタ文明を味わうにはここを訪れないといけない。さきほど、クノッソス遺跡で復元をみたフレスコ画の原本が展示されている。また、クノッソス神殿の模型があり、ラビリンスというにふさわしい複雑な構造を見ることができる。実際に、遺跡で見た石の配置などが立体的に理解できるのは大変すばらしい。クノッソスのシンボルはダブルアックス、両斧というのかな、儀式ではこれを奉納していたようだ。普段使いの壺には、タコや木、花などがあしらわれ、女性の豊かな表情の人物画、農耕系の穏やかな牧歌的な図柄である。ミノア文明が農耕的な平和な穏やかな文明であったことが展示品からみてとれる。これから本土で見たミケーネでは、戦闘している図案や基盤などが中心であり、同じミケーネ文明であり連続的ではあるが武力を重視した文明に変質していることがわかる。

<クノッソス国立考古博物館ー蛇を持つ女性>  <タコの陶器>

蛇使いの女性

14世紀にミケーネにクノッソスは滅ぼされた後もそれなりの繁栄が続くが、ミケーネが崩壊した紀元前10世紀以降の遺物は明らかに質が下がっており、時代の流れ、クレタの古代文明が終焉を迎えたようである。展示は、クノッソス以外のところからの出土品もある。

<ユリの王子壁画>           <イルカ壁画>

ユリの王子の壁画イルカの壁画

<三人のクノッソスの女性>

また、象形文字、線文字AやBが刻んである粘土板が展示しており、教科書で見た線文字を生で見れたのは楽しい。粘土板に刻むから刻む道具を考えると、こうした線文字というのが使いやすいのだな、と思う。線文字Bでも文字数は数百を超え、粘土板の出土の少ない線文字Aや象形文字は解読されていない。線文字では行政官の記録に使われただけであり、伝承や文化的な記録はないので、当時の生活は出土品やギリシャ神話から推定するしかないようだ。クノッソス遺跡とこの博物館でクレタ文明の姿を十分に味わうことができた。

<線文字Bの粘土板>

フライトまで時間があるので、イラクリオン市街を散歩。こじんまりした街だが、カフェやショップでそれなりに賑わっている。街の中心の片隅にエルグレコ公園があり、彼の彫像があった。エルグレコはスペインの画家と思ったが、ここクレタの出身だそうだ。ほー。その周りにあるカフェで、ジェラートだ。テラス席でピスタチオとティラミス、大きいよ。5.5€。クレタの昼下がり大満足です

<エルグレコ公園>

エルグレコ公園の像

空港にバスで戻り、18時25分発のエーゲ航空でアテネ空港へ、そしてバスでシンタグマ広場へ21時ころに到着。夕食は、シンタグマにあるレストランへ。ここは串焼き。スブラキというもので、豚や鶏の炭火焼き串を数本に、ピタ2枚、ポテト、トマトにサワークリームがついた一皿。これにサラダとジュースをつけて注文。串焼きは、イスタンブールの串焼きに似ている。豚が食べらることが違う。豚肉が香ばしく焼けており、クリームをつけて付け合わせとあわせてピタで食べる。最高だね。これをまいて紙で包むとギロ、ギリシャのソールフード、うまい。レストランであるが、25€くらいだったかな。満足です

<スブラキ>