今日も同じ時間に起き、身支度をし家事をこなす。
自動的にできるようになった。
今ここにいる幸せを充分に感じる。
何も起きてない幸せ。
この幸せを感じることが、今までなかなかできなかった。
何も起きていない幸せがわからないうちは「人生退屈でつまらない」と思う。
そして、わざわざ何かを作り出し、わざわざ何かを体験する。
だけど、その体験があるからこそ、それがわかる。
全ては無駄ではないし、無駄なことなど何もない。
無駄な事など、なにもない
無駄ではない事など、なにもない
意味のある事など、なにもない
意味のない事など、なにもない
全てに意味などなにもない。
なにもないからこそ、そこにそれぞれが自由に意味をつけることができる。
それぞれがそれぞれの意味づけをし、現実という名の幻想を作りだす。
そして、その作られた幻想の中で「生きる」という経験をする。
意味づけをしないで何らかの世界観を創ることはできるのか?
意味づけをして、現実という名の幻想を作っている真裏で、
意味づけをせず、感性で真実という名の現実を同時に創っている。
並行して存在する二つの世界。
どちらの世界観で生きるのも自由。
選択も自由。
多くの場合、意味づけをして作られた幻想の中で、そこが現実だと信じて疑わない状態で生きている。
過去の誰かの信じて疑わない考えを何の疑いもなくそのまま信じて、誰かが信じた価値観の世界の中で生きている。
そこがこの世の現実だと信じて疑わない状態で生きている。
自分の感じる感性を脇によけて、誰かが信じてきた価値観を生きる。
自分の感性から現実を創れることを忘れて、「この世は思い通りにならない」という価値観を当たり前のように信じて生きている。
人生は自分で自由にクリエイトしながら生きることができる。
そのためには、自分の「感じる」という感覚を取り戻すことが必須。
人はいつしか感じる感覚に蓋をして、頭の中の考えに従って現実を作りだすようになった。
このままでは、ありのままの真実の自分を知らぬまま人生を終える事になる。
並行して同時に存在する感性の世界に気づいた時、世界は一変する。
現実は今までと一緒でも、感性で視る世界は感じ方が全く違う。
そのとき初めて、もう一方の感性の世界を知る事になる。
これからの時代は、この感性の世界で生きる事が主流になる。
今まで信じてきた頭の中の世界にはもう限界がきていて、誤魔化しが効かなくなってきている。
その証拠に目に見える現実はますます厳しいものになっていく。
すでに過去の当たり前の時代は終わっていて、今までの生き方はもう通用しない。
もう一方の感性の世界にいち早く気づいてシフトするのか、
限界まで頑張って生きるのかは、人それぞれの自由に委ねられている。