あの頼朝が征夷大将軍とはな・・・わからぬものよ
平安末期の武将で源義平という人物がいます。
源義朝の長男で鎌倉幕府を開いた頼朝の腹違いの兄です。
この義平は悪源太という名のが有名な武将です。
悪源太とかいうとなんか悪さばっかしているみたいなイメージに思えるでしょうが、そうではありません。
この悪というのはずる過ぎるほど凄いとか強すぎるという意味で使われているんですね。
後醍醐天皇のために立ち上がった南朝の忠臣である楠木正成も悪党と呼ばれて恐れられていましたが、あれも強すぎる人という意味で悪党と呼ばれていたんですよね。
つまり悪源太は現代風に訳すと強すぎる源氏の跡取り息子みたいな意味です。
なぜそう言われるようになったかと言いますと、義平が15歳の時に叔父である源義賢との間で争いが起こったんですね。
この義賢という人物は有名な木曾義仲の父で、義平の父である義朝の弟でもあり、かなりの武勇の士として知られた人物だったそうなのです。
その義賢を少年とも言うべき年齢で討ったことからそう言われて恐れられるようになったというわけです。
そしてその4年後の平治の乱で父義朝から平清盛を討つべく鎌倉から呼ばれて京へとはせ参じ、大いに悩ませたそうです。
戦いに敗れたあと、義朝は逃亡中に長田荘司に騙まし討ちに遭い、弟たちも平家に捕らわれる中、義平は清盛を打つべく京に戻ります。
結局暗殺計画は失敗し、なんとか逃げ延びたのですが、空腹には叶わず最後は捕らわれてしまい、首を刎ねられました。
もし、源氏が平治の乱で勝利していたら、この義平が後を継いで恐るべき源氏軍団を作ったでしょうね。
そうそう、この義平には伝説があるんですよ。
義平は難波三郎経房という人物に捕らえられ、処刑役も経房だったのですが、
その際に「やあお前は、義平の首を討つほどのものなのか。名誉なことだうまく斬れ。まずく斬るならば、お前の頬に食らえついてやるぞ。そしてついには雷になって蹴り殺してやるぞ」と言ったそうなんですね。
それから8年後、清盛のお供で経房が摂津の布引の滝の見物に行くと、雷雨が起こってなんとか経房がその雷に打たれて焼け死んでしまったそうです。
その伝承を元に青森では雷神となった義平をねぶたにしているとか。
戦国時代になると、武家の棟梁というのは前線に出て武勇を誇る機会がなくなりますよね。
でも、こういう平安時代の棟梁は自身も時には先頭に立って戦うくらい強かったりするんで好きなんですよね。
勿論、戦国時代の棟梁も強い人は強いんですけどね。
戦国武将がブームとなっている中、私個人は過剰なまでに平安~鎌倉期の武将をプッシュしていこうと思っていますw
ほぇー・・・
悪ってそういう意味で使われてたんですね。
勉強になりました(`・ω・´){キラリ}
Σそんな伝説まで・・・!
もしそれが本当だったらすごいですよねぇ。