快読日記

日々の読書記録

「自己愛な人たち」春日武彦

2013年01月04日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
《1/1読了 講談社現代新書 2012年刊 【精神医学 エッセイ】 かすが・たけひこ(1951~)》

「この世の中はあまりにも《思い上がり》や《独りよがり》の精神に塗りつぶされていないか。わたしはときおりこの世界に生きていること自体がたまらなく不快で幻滅させられるのだけれど、そうした気分とのど自慢の出場者たちの善人ぶりとの落差に戸惑わずにはいられない」(20p)

春日武彦、なんだか年を追うごとに狭量になってませんか。
もう還暦過ぎているというのに少年のような敏感さと気難しさ。
そんな風に生きるのはさぞかしストレスがたまるだろう、と親戚でもないのに推し量るわけです。
(…などと言いつつまた買っちゃうんですが。)

ここでいう「自己愛」は、“俺ってかっこいい”式の単純なナルシシズムとは違います。
もっと巧妙で根深い、自分を傷つけないための“設定”みたいなもの。
例えば自分に特定のキャラ設定をして生きること。
それは出世コースから外れた気のいいおじさんだったり、精神を病む妻を見守る知的で紳士な夫だったり。
必ずしも“いい設定”ばかりとは限らないところがミソ。
ちょっと深く関わればその奥にある違和感(自己防御や自己演出や自己欺瞞)にぶち当たるのは必至ですが、うっかりそこをつついてしまってはいけません。
執念深い「彼ら」を敵に回してはいけない、できるだけ遠くから眺めているのが賢明です。

さまざまな「彼ら」を小説作品の登場人物や実生活で出会った人々から挙げていく前半は、「ああ、こういう人いるわ~」と共感するだけにしんどい。
終盤、「自己愛」を「誇大型/過敏型」に分ける考え方を紹介し、そこに「卑しい/健全」という別ベクトルの軸を設定すると、今までのボヤキみたいな(失礼)数々のエピソードがするするっと束になるおもしろさがありました。
「自己愛」が引きこもり、新型うつ、ゴミ屋敷の主などなどに変装する、という考察も腑に落ちます。

「リストカットを繰り返す人や、アルコール依存の人、拒食症の人、そうした人々は自己破壊的なくせに自己愛は強い」(34p)

読後、痛感したのは、
「彼ら」を不快に思ううちはいいけど、気づかぬうちに自分が「彼ら」側になってたらどうしよう!という恐怖、
そして、この本、正月にのんびり読む本じゃないな、ということです。

/「自己愛な人たち」春日武彦